いわゆる「幕末」の歴史に興味がある人。
恐らくは、ほとんどが、坂本龍馬、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作、吉田松陰などのファンということになるのではないでしょうかね。
そして、彼らの視点から見た「幕末」の政治の流れは、「無能」な幕府が、欧米列強の言いなりになり、不平等条約を結ばされ、社会は混乱。
この「乱れた世の中」を正すために、幕府を倒す、正義の人が、坂本龍馬であり、西郷隆盛であり、木戸孝允であり、高杉晋作であり、吉田松陰、と、言う認識を持っているのではないでしょうかね。
しかし、この認識は、大きな「誤り」であり、「間違い」です。
徳川幕府の視点で、「幕末」の政治の流れを見ていると、全く、違った「幕末」という時代の認識が生まれます。
この「幕末」という時代。
徳川幕府の首脳たちは、何を考え、どのような行動を取っていたのか。
それが、よく分かるのが、福地源一郎の書いた「幕末政治家」という本です。
この福地源一郎は、語学に天才的才能を発揮し、幕臣に取り立てられ、通訳として活躍し、幕府の使節に同行して、広く、ヨーロッパを見聞。
明治に入ると、新政府に出仕をすると同時に、ジャーナリストとしても活躍。
文才にも優れ、小説や評論、演劇の脚本なども、数多く、執筆をしている。
実際に、幕臣として活躍をし、外交の分野に、大きな関わりを持っていた福地源一郎。
幕府の内情に詳しい人物が書いたもので、とても、面白く、リアリティがある。
実は、幕府の首脳である「老中」たち、そして、実務を担当した「奉行」「目付」といった官僚たち。
彼らは、欧米列強の事情に精通し、優れた見識を持ち、欧米列強の公使たちを相手に、一歩も引かない外交を展開していた。
結果として、不平等条約を結ばされ、社会に経済的な混乱などが起こったのは、何事も、日本人にとって、初めての経験で、未知数だったこと。
その責任を、全て、幕府に負わせるのは、理不尽でしょう。
ちなみに、ペリー来航以降、日本の政治や社会が大きく混乱した最大の原因は「尊皇攘夷思想」にあります。
外国情勢に無知な人たちが、「日本は、天皇を中心とした神の国であるから、野蛮な夷人を国内に入れるなど、とんでもないことだ」と、日本の各地で活動を始め、その勢力が猛威を振るうことになる。
外国の情勢に詳しく、また、日本の政治を担う幕府の首脳や官僚たちは、この「尊皇攘夷」の猛威に対して、「言っていること、やっていることが無茶苦茶だ」と思いつつも、「天皇」を持ち出されると、反論が出来なかった。
なぜなら、「幕府」は、「天皇」の委任を受けて、日本の政治を見ている訳で、「天皇」の意思に逆らうことは、基本的には出来ない。
そのため、「天皇」を担ぎ上げる「尊皇攘夷」勢力に対して、有効な手を打てないまま、欧米列強と、「尊皇攘夷」勢力の間に挟まれ、身動きが取れなくなってしまう。
しかし、この「尊皇攘夷」勢力の暴走が、歯止めが効かなくなった時、ついに「天皇」である孝明天皇自身が、「尊皇攘夷」勢力の京都からの排除を決断する。
それが、文久3年(1863)8月18日の政変です。
そして、翌年には、「尊皇攘夷」勢力の中心地だった長州藩が、挙兵し、京都に向けて進軍。
天皇の御所を守る会津藩、薩摩藩と、そこに攻め込む長州藩との間で、武力衝突が起こる。
これが「禁門の変」です。
この「禁門の変」の結果、長州藩は敗北し、「尊皇攘夷」の猛威は、終わりを告げる。
さて、ここからは、「開国」は、当然の前提としての政治的駆け引きが、幕府、そして、薩摩藩、長州藩、土佐藩らの間で、始まることになる。
この先の話は、また、長くなるので、また、別の機会に。