いつもブログを見てくれている方から、「庭瀬に、庭瀬港の常夜燈がある」と教えてもらったので、見に行ってみました。
今、庭瀬と言えば、内陸で、とても「港」があったとは思えない。
しかし、ネットで調べてみると、かつて、この庭瀬では、足守川から縦横に水路が引かれ、海運が盛んだったそうですね。
瀬戸内海から足守川に入り、庭瀬港まで船で荷物を運んでいたよう。
その庭瀬港の常夜燈。
旧2号線から、南へ。
水路の角に、大きな常夜燈がありました。
この常夜燈は、昭和29年に撤去されたものを、平成19年に復元をしたものだそうですね。
下の石の部分だけは、オリジナルのもののよう。
ここが「庭瀬港」として、かつては、随分と、賑わっていたのでしょう。
旧庭瀬港と常夜燈の説明版。
かつての地図も描かれています。
水路が張り巡らされているのが、よく分かります。
近くには、このような道しるべの石柱が。
「安政六年」の年号が書かれています。
近くの橋に、このようなものが。
船を係留でもするためのものなのでしょうか。
その橋には、「庭瀬城」の石柱がありました。
この橋の先に、「庭瀬城」があるのですが、取り敢えず、水路に沿って西へ。
ちなみに、この水路は、庭瀬城の外堀の役割も果たしていたそうです。
すると、水路には「高瀬舟」のようなものが二隻。
竿があるということは、今も、使用をされているのでしょう。
さて、戻って、庭瀬城に向かいます。
正面、内堀でしょう。
右手が庭瀬城になります。
庭瀬城の説明の看板です。
内堀、東方面。
これは、大賀一郎博士と、オオガハスの説明。
ネットで調べてみると、大賀博士は、この庭瀬の出身で、植物学者だそうですね。
そして、約2000年前の地層からハスの実を発見し、その開花に成功。
それが「オオガハス」だそうです。
この内堀の上にあるのが「オオガハス」なのでしょう。
内堀を渡り、庭瀬城跡の中には、このような建物が。
ネットで調べると、これは清山神社だそうですね。
清山神社を、南から見る。
この清山神社は、当時、庭瀬藩主だった板倉氏が寛政6年(1794)に建てたものだそうです。
清山神社の南。
こちらは、八幡宮でしょうか。
それとも、こちらも、清山神社なのでしょうかね。
小さな狛犬が、かわいいですね。
この神社の脇の大木は、恐らく、江戸時代、それ以前から、ここに生えているのではないですかね。
ずっと、この庭瀬の歴史を見て来たのでしょう。
さて、「庭瀬城」について。
この場所に、城を最初に築いたのは、備中国の三村元親だそうですね。
しかし、この三村元親は、備前国侵攻を図ったものの、宇喜多直家に敗北をすることになる。
その後、毛利氏と羽柴秀吉が激しく戦う中で、時の城主、井上就正は、羽柴軍に敗れ、城は、宇喜多氏のものとなる。
しかし、城主は置かれなかったそうですね。
この「庭瀬城」の隣には、「撫川城」もあるそうですが、かつて、この「庭瀬城」の縄張りは、この撫川城も含んでいたということ。
そして、江戸時代、庭瀬藩の初代藩主となった戸川達安が、庭瀬城に入り、大幅な改修を行いますが、城は、廃城とし、二の丸に藩庁を設置。
庭瀬城は、「庭瀬陣屋」となったそうです。
この「戸川達安」は、宇喜多直家の重臣、戸川秀安の嫡男。
秀安が隠居をすると備前国児島の常山城主となる。
そして、宇喜多秀家を支える重臣となる訳ですが、「関ケ原の戦い」の直前に起きた「宇喜多騒動」で、戸川達安を始め、宇喜多家重臣たちと、主君の宇喜多秀家が激しく対立。
一触即発の緊張状態の中で、徳川家康の仲介により、宇喜多家重臣たちは、宇喜多家を離れ、多くが徳川家に仕えることになる。
戸川達安も、その中の一人。
しかし、庭瀬藩主となった戸川家は、四代で断絶。
その後、久世氏、松平氏、などが藩主となったり、倉敷代官所の管轄になったりした期間を経て、元禄12年に、板倉氏が入り、江戸時代の終わりまで続いたそう。
撫川城跡が、近くにあるのを知らなかったので、見に行かなったのが残念。
地図を見ると、庭瀬には、多くのお寺、神社があるようなので、また、そのうちに行ってみようと思います。