宇喜多直家は、戦国時代、備前国、美作国の覇者となった武将です。

この「宇喜多直家」について、この本から。

 

 

宇喜多直家と言えば、世の中的には、「謀略」「裏切り」を駆使してのし上がった、戦国時代を代表する「悪人」というイメージが強い。

時代劇でも、歴史小説でも、そういったイメージで、宇喜多直家は描かれることが多いよう。

しかし、「謀略」も「裏切り」も、生き残るために、戦国武将が、当たり前に行っていたこと。

なぜ、宇喜多直家ばかりが「悪人」というイメージになってしまったのか。

 

最初に、この宇喜多直家を「悪人」と評価したのは、江戸時代初期に、「小瀬甫庵」という人の書いた「甫庵太閤記」という本のようですね。

この小瀬甫庵という人は、元医師で、儒者として有名な藤原惺窩の弟子だったそう。

そして、江戸時代に社会の一般的な価値観になる「儒教道徳」の判断基準で、戦国武将を評価した。

つまり、「武士は二君に仕えず」とか「嘘は悪いことだ」という価値観。

この「甫庵太閤記」の中で、小瀬甫庵は、宇喜多直家を「悪人」として厳しく批判している。

この「甫庵太閤記」が、社会で広く読まれたことで、「宇喜多直家」=「悪人」というイメージが生まれたようです。

 

そして、このイメージを受け継いで「備前軍記」が書かれることになる。

この「備前軍記」を書いたのは、岡山藩士の土肥経平。

この土肥経平は、今で言う郷土史家でもあったそうですね。

恐らく、本人は、史実に忠実であろうとしてこの「備前軍記」を書いたのでしょうが、もちろん、当時の状況では、伝えられている話が史実かどうかを確認するのは限界がありますし、面白いものを書こうという意識もあったのか、宇喜多直家の謀略を、かなり、物語性の高い、面白いものとして、まるで創作物語のように書いている。

そして、この「備前軍記」が、長く「史実」として語られることで、宇喜多直家の「悪人」のイメージは、更に、社会に浸透することになる。

 

そして、現代では、あの歴史小説家の「海音寺潮五郎」もまた、宇喜多直家を著書の中で、「悪人」として厳しく批判をしているということ。

これもまた、現代の人に「宇喜多直家」=「悪人」のイメージを植え付けることになったのでしょう。

 

さて、史実としての「宇喜多直家」について。

 

確かな史料に宇喜多直家が登場するのは、29歳の時が最初のようですね。

つまり、それ以前の宇喜多直家については、創作の多く混じる「軍記物」に頼るしかない。

そして、やはり宇喜多直家を語る「軍記物」といえば「備前軍記」ということになる。

 

宇喜多能家が砥石城で滅びた後、孫の直家は、叔母に養育されていたということ。

そして、母は、浦上宗景に仕え、その縁で、宗景の元に出仕をするようになったそう。

ちなみに、浦上氏は、浦上村宗が播磨国で戦死をした後、浦上勢力は、再び、蜂起をし、後を継いだ浦上政宗の元で、勢力を大きく回復させていたそう。

浦上宗景は、この政宗の弟で、当時、十代前半くらいだったのではないかという話で、宗景ではなく、政宗に仕えたと考える方が自然ではないかということのよう。

もっとも、それは、史料が無いので、分からない。

 

浦上政宗は、浦上氏の勢力の回復を遂げますが、播磨国の情勢は、未だ、大きな混乱が続く。

その中で、西からは毛利氏の勢力が、北からは尼子氏の勢力が備前国、美作国、播磨国に影響力を及ぼし始める。

特に、尼子氏の美作国、播磨国への侵攻は激しく、浦上氏は、それにも対処をしなければならなかった。

その中で、浦上氏は、播磨国西部に拠点を置く浦上政宗、備前国東部に拠点を置く浦上宗景の二つに分裂し、ついに、激しく、戦うことになる。

 

宇喜多直家は、この両浦上氏の抗争の中で、浦上宗景の配下として次第に勢力を拡大して行くことになる。

まず、吉井川河口近くにある乙子城を与えられた直家は、そこで、かつての宇喜多家の家臣らを集め、力を蓄える。

そして、宗景の命令を受け、沼城の中山信正(最近、勝政が正しいということが判明)や、砥石城の島村貫阿弥などを討ち、沼城(亀山城)に拠点を移す。

 

宇喜多直家は、ここから、備前国西部、そして、美作国に、勢力の拡大を目指す。

龍ノ口城の穝所元経を暗殺。

美作国に侵攻を目指した備中国の武将、三村家親を暗殺。

更に、明善寺合戦で、備前国侵攻を目指した家親の後を継いだ三村元親の軍勢を破り、備前国西部へ勢力を拡大。

そして、松田氏を倒し、岡山へ拠点を移すことに。

 

この間、浦上政宗、宗景の抗争は、宗景が、政宗を圧倒し、政宗は、播磨国で、赤松氏の勢力によって暗殺されることになる。

政宗との抗争に勝利をした宗景ですが、急速に勢力を拡大した宇喜多直家との抗争は、避けられないものになっていた。

そして、この頃には、尼子晴久の死去によって、勢いを落とした尼子氏に代わり、西の毛利氏、そして、東からは織田信長の勢力が迫り、浦上宗景、宇喜多直家も、この巨大勢力の狭間で、生き残りをかけて戦うことになる。

そして、織田信長が、浦上宗景を取り込んだことを契機に、宇喜多直家、浦上宗景は全面対決。

つにに、宇喜多直家は、浦上宗景の天神山城を落とし、宗景は信長の元に逃亡。

宇喜多直家は、備前国、美作国の覇者となる。

 

しかし、宇喜多直家の困難な戦いは続く。

それは、織田信長配下の武将、羽柴秀吉が、着実に播磨国への侵攻を進めたため。

当初、毛利氏の配下として、秀吉と戦っていた直家ですが、織田信長の威勢を見て、毛利氏を裏切り、信長の側に寝返る。

そして、秀吉の配下として、今度は、毛利氏との戦いが続く。

 

そして、毛利氏、羽柴秀吉の激しい戦いの中で、宇喜多直家は、病死することになる。

享年、54歳。

 

戦国時代、播磨国、備前国、美作国は、赤松氏の力が衰えた後、多くの勢力が入り乱れて、大きな力を持つ戦国大名が登場をしなかった。

そして、ようやく、宇喜多直家が、備前国、美作国を、ほぼ、手中にした時、すでに時代は、織田信長が畿内を中心に圧倒的な勢力を確立。

毛利氏、織田氏といった巨大な力の狭間で、宇喜多直家は、戦い続けねばならなかったということ。

 

さて、小瀬甫庵の「甫庵太閤記」で、宇喜多直家と並んで「悪人」として批判をされたのが、「斎藤道三」と「松永久秀」です

この斎藤道三、松永久秀も、長く、社会の中で「悪人」として認知されていましたが、近年、確かな史料による研究が進み、斎藤道三、松永久秀については、かなり、イメージが変わって来ているようです。

しかし、宇喜多直家については、なかなか、その研究が進まないよう。

やはり、史料の少なさが、ネックになっているのでしょうかね。

 

ちなみに、斎藤道三には「マムシ」というニックネームがあったと言われていますが、これは、作家の坂口安吾がつけたものだという話も。

戦国時代に、そういう呼び名は無かったということです。