一般的に「真田三代」と言えば、真田幸綱(幸隆)、真田昌幸、真田信繁(幸村)を指すようですね。
しかし、真田昌幸の後、真田家を継ぎ、江戸時代に続く家を維持したのは、真田信繁の兄である真田信之ということになる。
本来、父、昌幸もまた、真田家の家督を継ぐ立場ではなかったのですが、信綱、昌輝という兄たちが長篠の戦いで戦死をしたことで、真田家当主となることに。
そして、その時、信之は、真田信綱の娘、清音院殿を正室としているそうで、これは、昌幸、そして、信之と続く真田家の正当性を確保するためだったと考えられているよう。
つまり、信之と清音院殿との間に生まれた男子が、将来、真田家当主となれば、真田家嫡流の血を受け継いでいるということ。
やはり、「家」にとって、「血統」というのは、重要なものだったのでしょう。
しかし、「関ケ原の戦い」が勃発をした時、信之は、父、昌幸、弟、信繁が「西軍」についたのに反して、信之は「東軍」につくことに。
これは、「どちらが勝っても、真田家の滅亡を防ぐため」とも言われますが、この時、信之は、徳川家康の重臣、本多忠勝の娘を正室に迎えていたため(清音院殿は、正室を外されていたよう)、意見の対立から分裂というのは、自然な流れだったのでしょう。
さて、この真田信之という人は、何と、93歳まで生きている。
当時としては、希に見る高齢だったのでしょう。
しかし、信之が健康だったのかと言えば、むしろ逆で、若い頃から、病気がちだったそう。
病気で公務をこなせないことも多かったようで、よく93歳まで生きたものだという感じです。
しかも、幕府の命令で、91歳まで、隠居が許されなかったということ。
やはり、戦国時代を経験した最後の大名ということで、幕閣からも、大きな信頼をおかれていたのでしょう。
しかし、長命であることは、必ずしも、良いことばかりではない。
信之は、長男、信吉は40歳という若さで死去。
次男、信政は、なかなか、家督を継げない状況に、大きな不満を持ち、ようやく家督を継げたと思えば、間もなく、亡くなる。
信政は、死去した時に、老齢の父、信之に何の言葉も残さず、確執の大きさを物語っている。
しかも、信政の死後、子供たちが家督争いで騒動を起こし、信之は、その収拾に奔走しなければならなかった。
父、真田昌幸、弟、真田信繁の陰に隠れて、目立たない印象ですが、なかなか、興味深い人物です。