新田義貞は、鎌倉幕府を滅ぼした人物として有名ですよね。

個人的に、興味深い人物ですが、世間的には、あまり、人気のある人物ではないためか、新田義貞個人に焦点を当てた本というのは、少ないよう。

 

 

 

評伝としては、この二冊ということになる。

新田義貞の生涯を知るには、上の本の方が、詳しく、分かり易い。

下の本は、やや、難しく、新田義貞について、ある程度の知識を持ってから読む方が良いのかも。

 

さて、この「新田義貞」について、個人的に、思い入れがあり、想像も交えて、いくつか。

 

この「新田義貞」は、南北朝時代、「足利尊氏」と激しく争い、戦死をする。

この新田義貞、足利尊氏の一連の戦いは、両者、共に「清和源氏嫡流」の名門の血統で「武家の棟梁」の座を巡って争ったと言われていましが、今は、完全に、否定をされています。

 

実は、「新田一族」は、「足利一門」の中に含まれ、つまり、新田義貞は、当時の社会の認識としては、「足利尊氏の下にある一族の中の一人」というものだったそう。

つまり、足利尊氏と、新田義貞とでは、その「身分」に雲泥の差があったということ。

例えて言えば、足利尊氏も新田義貞も、血筋を遡れば、同じ、超有名、超有力政治家を先祖に持ちますが、現状では、足利尊氏が、次の総理大臣を狙う与党の大物政治家で、新田義貞は、地方の無名の一市会議員に過ぎないと言ったところ。

つまり、政治的影響力、社会的身分では、新田義貞は、足利尊氏と肩を並べることが出来ない、低い立場の人間だったということ。

 

では、なぜ、新田義貞は、倒幕の挙兵をし、大軍を持って、鎌倉を攻略することが出来たのか。

それは、足利尊氏の指示があったからと考えられるようです。

実際に、新田一族の中の岩松氏のところには、挙兵を促す尊氏の書状が届いているということ。

また、尊氏は、幕府を裏切るに当たって、鎌倉から嫡男の千寿王を脱出させますが、この千寿王を保護し、行動を共にしたのが、新田一族の世良田氏です。

そして、新田本宗家の当主である新田義貞は、総大将として、鎌倉に進軍をすることになる。

義貞の元には、周辺地域から多くの武士が集まり、義貞軍が、幕府軍を破ると、ますます、軍勢は膨れ上がり、大軍を擁した新田義貞は、ついに、鎌倉を攻め滅ぼします。

 

実は、この新田義貞の鎌倉攻略後、鎌倉を政治的に支配下に置いたのは、足利尊氏です。

尊氏は、義貞の鎌倉制圧を受け、すぐに重臣を鎌倉に派遣。

新田義貞は、鎌倉を、尊氏に明け渡す格好で、上洛をします。

かつて、ここから、尊氏との対決に至るまで、新田義貞に政治的な動きが全く無いことは、新田義貞の「政治的未熟さ」として評価されていましたが、義貞は、尊氏の配下にあったと考えれば、納得の行くところ。

つまり、尊氏は「武家の棟梁」として、鎌倉を支配し、全国の武士を支配下に置く必要があったのですが、新田義貞には、その必要が無かった。

義貞が政治的行動を見せなかったのは、そういう理由があったと考えれば、解決をする。

 

では、なぜ、新田義貞は、足利尊氏を相手に、戦死をするまで、戦い続けなければならなかったのか。

新田義貞は、戦いながら、何を考えていたのか。

 

これからも、色々と勉強し、考えてみたいところです。