高島野十郎の「絵」と並んで、もう一人、個人的に好きな画家が居ます。

時代的には、「画家」というよりも「絵師」と言った方が良いのかも知れない。

それは、「渡辺崋山」です。

 

この「渡辺崋山」は、学校の歴史の教科書にも出て来る人物。

それは、天保10年(1839)に起きた「蛮社の獄」で処分を受けたというもの。

 

渡辺崋山は、三河国の田原藩の藩士です。

田原藩の中では、家格の高い家だったのですが、田原藩自体が、非常に、貧しい藩で、渡辺崋山も、極貧の中での生活だったようです。

しかし、「絵」を描く才能があった崋山は、「絵」を売って、生計を立てるようになる。

そして、谷文晁に入門し、その才能が開花。

数多くの、優れた絵画を描き残すことになる。

 

 

個人的に好きなのは、渡辺崋山の描く「肖像画」で、リアルな顔の表現と、古典的な日本画の服装の表現が、とても不思議な組み合わせで、しかも、上手く、マッチしている。

この「肖像画」の中でも「鷹見泉石像」は、国宝に指定をされている。

ちなみに、この「鷹見泉石」は、下総国古河藩の家老で、あの「大塩平八郎の乱」の鎮圧の指揮を取った人物でもある。

 

さて、この「渡辺崋山」という人物について。

 

絵を描く才能に恵まれただけではなく、優れた頭脳と見識を備えた人物でもあったよう。

それは、江戸で設立された「尚歯会」に参加をし、そのリーダー格となったことでも分かる。

この「尚歯会」とは、江戸の優れた知識人が集まったグループで、蘭学者として高名な「高野長英」や、後に、ロシアとの外交に活躍をする幕臣「川路聖謨」や、西洋軍学の大家である韮山代官の「江川英龍」なども「尚歯会」のメンバーの一人。

彼らの上に立つ立場だった渡辺崋山が、いかに優れた人物だったかが、よく分かる。

 

しかし、この「尚歯会」のリーダー格だったことが、「蛮社の獄」で、弾圧を受ける対象になってしまうという結果に。

幕府から、厳しい処分を受けた崋山は、生活に困窮し、次第に、経済的、精神的に追い詰められ、自害をする。

 

 

 

さて、少し、余談。

 

渡辺崋山の描いた「鷹見泉石像」は、「国宝」に指定されていますが、これは、絵画の国宝としては、時代的に、最も、新しいものだそうです。

 

また、日本史の教科書に「寺子屋」で学ぶ子供たちの絵が掲載をされていたと思いますが、それもまた、渡辺崋山の描いた絵のよう。

 

また、日本の洋式軍隊の先駆けとなった江川英龍。

「右向け、右」「回れ、右」

など、日本で使われる軍隊の号令は、この江川英龍が翻訳をしたものだそう。