高島野十郎という洋画家がいます。

明治23年(1890)生まれ、昭和50年(1975)に亡くなる。

 

僕は、「絵」というものに、あまり関心がある訳ではないのですが、この高島野十郎の絵を初めて見た時に、何か、「絵」以外の、不思議な「力」のようなものを感じました。

「心が揺さぶられる」とは、このような経験を言うのだろうと思いますが、「絵」を見て、そのような感情になったのは、初めてで、唯一のこと。

それ以来、高島野十郎の「絵」が、大好きです。

 

 

 

この「高島野十郎」という人は、かなり「変わった人」です。

 

子供の頃から「絵」を描くことが好きで、恐らく、最初から、将来は、画家になるつもりだったのでしょう。

東京帝国大学農学部水産学科を首席で卒業をした秀才。

しかし、首席で卒業の人に与えられる天皇陛下からの銀時計の受け取りを拒否し、画家としての生活に入ったそう。

 

「画家」という職業。

多くの人に、自分の描く「絵」を評価してもらい、自分の名前を売るのが、一般的な道なのでしょう。

そのためには「画壇」と呼ばれるグループに参加をしなければならない。

この「画壇」の中で、高名な画家に師事し、高く評価をされるような「絵」を描き、世間に「名前」を売り、自分の「絵」の価値を高める。

これが、一般的な、「画家」の歩む道なのだろうと思います。

 

しかし、高島野十郎は、ごく初期の、わずかな期間を除いて、他の画家たちと交流を持つことは無かったよう。

亡くなるまで、ずっと、一人、孤独に、「絵」を描き続けた。

そのため、高島野十郎は、生前は、全く、無名の画家に過ぎなかった。

 

 

しかし、だからといって、高島野十郎は、人と付き合うのが嫌いという訳ではなかったよう。

交流のあった多くの人たちに、火の灯った「ロウソク」の絵を描いてプレゼントをしているそうで、高島野十郎は「蝋燭の画家」などとも言われているようです。

 

高島野十郎が、世に知られるきっかけになったのは、昭和55年(1980)に福岡県立美術館で、福岡県出身の画家の絵を集めた美術展が行われた時、絵を集める過程で、ある人から「この絵も、福岡県出身の画家が描いたものだ」と、偶然に紹介をされた高島野十郎の絵を一枚、その美術展に展示をしたこと。

そこから、「高島野十郎」という画家と、その絵が、次第に、世間に知られるようになって行ったそう。

 

やはり、優れた芸術には、人の心を動かす力があるということですよね。

もっとも、どのような芸術が、人の心を動かすのかは、人によって、それぞれ、違うのでしょうが。