戦国時代の始まるきっかけになったとも言われる「応仁の乱」については、以前、この本が、話題になり、ベストセラーになったようですね。

 

 

なぜ、この本が話題になり、ベストセラーになったのか、理由はよく分かりませんが、この本が話題になったことにより、他にも、いくつも「応仁の乱」に関する本が出版され、当時、本屋に並んでいました。

僕も、この本を含め、いくつか読んでみたのですが、やはり、あまりにも複雑すぎて、概要ですら、よく分からないという印象。

当時の記憶と、ネットを頼りに、この「応仁の乱」について、自分なりにまとめてみたいと思います。

 

そもそも、室町幕府は、将軍権力が、あまり強いものではなく、有力守護大名の連合政権のような形を持っていました。

そして、この有力守護大名たちもまた、それほど、強い権力を家内で持っていた訳ではなく、度々、内紛が起こる、不安定な社会情勢が続いていたのが室町時代です。

そして、将軍が、その権力と強めようと、守護大名たちの内紛に介入を続けていたのが、社会の混乱に拍車をかけることになります。

この「内紛」というのは、主に「家督相続」のこと。

その行きつく果てが、「応仁の乱」だったということになるのでしょう。

 

文安6年(1449)、足利義政が室町幕府の第八代将軍に就任します。

この頃、管領は畠山持国だったのですが、持国は、子の義就を家督継承者とすることに。

しかし、持国が、重臣たちと対立をする中、重臣たちは、持国の甥にあたる弥三郎の擁立を画策。山名宗全、細川勝元ら、有力守護大名も、これを支持します。

享徳3年(1454)、弥三郎派が、持国邸を襲撃。持国は、隠居をさせられ、義就は、京都を脱出しますが、義就は、軍を率いて、再び上洛。家督を奪い返します。

 

享徳4年(1455)、畠山持国が亡くなり、義就が家督を相続。対立をしていた弥三郎派の弾圧を開始します。

この時の管領は細川勝元。勝元は、弥三郎を支援しますが、弥三郎は、間もなく、亡くなります。

そのため、弥三郎の後継として畠山政長を支援。政長の家督が認められ、義就は京都を追放されます。

 

寛正5年(1464)、29歳になっても子の居なかった足利義政は、弟の義視を後継者と決めます。この足利義視は、細川勝元の後見を受けることに。

しかし、翌年、義政に実子の義尚が誕生。この義尚の後見に山名宗全が就いたというのは史実ではなく、実際は、将軍側近の伊勢貞親が後見になったそうです。

 

文正元年(1466)、将軍、足利義政は、斯波義簾から斯波家の家督を取り上げ、義敏に与えます。

更に、義政は、斯波義敏に、義簾を討つことを命じます。

しかし、細川勝元、山名宗全は、この将軍の命令を拒否。

同じ頃、足利義視に対する暗殺計画が発覚し、それに加担した義政の側近、伊勢貞親らが、京都から排除されます。

そして、斯波家の家督は、義簾に戻されることに。

 

同年12月、畠山義就が、大軍と共に上洛し、千本地蔵院に陣取る。山名宗全は、これを支援することに。また、足利義政も、義就、山名宗全を支持。

細川勝元は、これに対抗して「御所巻」を実行し、義就を排除しようとしますが、山名宗全に先手を打たれて、失敗。

この「御所巻」とは、将軍の屋敷を囲み、要求を突きつけること。

畠山政長は、上御霊神社に陣を置き、義就と戦う決意を見せる。

義就は、天皇、上皇を「室町第」に避難させますが、細川勝元らは、これを「御所巻」にします。

足利義政は、畠山氏の私闘への関与を禁止を命じますが、諸大名は、これを無視。

応仁元年(1467)1月、ついに、畠山義就、政長が武力衝突。「御霊合戦」です。

この合戦では、政長が敗北し、政長は、細川勝元邸に避難し、匿われることに。

 

畠山義就を支援する山名宗全、畠山政長を支援する細川勝元、両者の対立が、本格化します。

そして、両者は、各地から軍を京都に召集。この時、両者が陣を置いた位置関係から、山名宗全を「西軍」、細川勝元を「東軍」と呼びます。

 

5月、京都での戦いが始まります。「応仁の乱」の始まりです。

東軍の細川勝元は、「室町第」を押さえ、将軍、足利義政を確保します。

そして、勝元の要請で、将軍の牙旗が東軍に下され、更に、足利義視が、総大将に担がれます。

更に、将軍、義政が、西軍に降伏を勧告。

軍勢の上洛が遅れ、劣勢でもあった西軍は、降伏の意思を示しますが、西軍の主力武将だった朝倉孝景の首を要求されたため、降伏を断念します。

そして、8月には、西軍として大内政弘が、大軍を率いて上洛。西軍は、勢力を回復します。

天皇、上皇が、「室町第」に避難。東軍は、将軍に加え、天皇、上皇を押さえますが、伊勢貞親との対立を懸念した総大将の足利義視が、伊勢国に逃亡。

10月、京都での最大の激戦と言われる「相国寺の戦い」が起こりますが、勝敗はつかず、しかし、西軍が、やや、有利な立場になったよう。

 

応仁2年(1468)9月、伊勢国に居た足利義視は、説得を受けて、東軍に戻る。しかし、足利義政は、義視の意見に耳を貸さず、子の義尚の擁立に動いたため、義視は、今度は、比叡山に出奔。

11月、比叡山の義視に、西軍が誘いをかけ、義視は、西軍に入る。

そして、西軍は、大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国を、ほぼ制圧。

京都での戦闘は、ほぼ、無くなり、戦場は、周辺諸国に移る。

東軍、西軍の戦いは、膠着状態になり、守護大名たちは、自国での争いも抱え、次第に、厭戦気分が漂うようになる。

 

文明3年(1471)5月、西軍の有力武将だった朝倉孝景が、越前国守護への補任を受け、東軍に寝返る。

これによって、東軍が、やや、有利な状況に。

8月、西軍は、小倉宮の皇子を擁立。これが「西陣南帝」と呼ばれるもの。

 

文明4年(1472)、山名宗全、細川勝元の間で、和睦の交渉が始まりますが、この交渉は、上手く行かないことになる。

そして、山名宗全は、政豊に、細川勝元は、政元に家督を譲り、翌年、相次いで、亡くなることに。

12月、足利義政は、将軍職を義尚に譲る。

 

文明6年(1474)4月、山名政豊、細川正元の間で、和睦が成立。

「応仁の乱」は、終息に向かうことになる。

 

しかし、畠山義就は、更に、軍事行動を続け、河内国、大和国、山城国に侵攻。

畠山政長と激しく戦うことになります。

ちなみに、この時、山城国で、畠山氏の争いに対抗して起こったのが「山城国一揆」です。

この一揆勢力が、畠山義就、政長の軍を、山城国から追い出すことになる。

 

そもそも、「室町時代」は、初めから終わりまで、延々と社会の混乱が続いた時代と言えます。

全国各地で、諸勢力の争いが絶えず、戦乱の繰り返し。

それは、絶大な権力を持ったと言われる第三代将軍、足利義満の時代でも、例外ではない。

 

ちなみに、この「室町時代」は、社会の価値観が一変をした時代でもあり、今の日本に繋がる多くの習慣が生まれたのも、この「室町時代」だったそう。

この点は、網野義彦さんの本に、色々と面白い話が、たくさん、あります。