南北朝時代に起こった「観応の擾乱」について。

関心を持っているという人は、なかなか、居ないのかも。

なぜなら、対立、抗争が複雑で、簡単に理解をすることが出来ない。

本を読んでも、なかなか、頭で整理をするのは難しい。

 

 

個人的に、この本を読んで、頭の中で、簡単に、まとめたことに、想像を加えて、書いてみます。

 

室町幕府の初代、将軍になったのは足利尊氏です。

しかし、この足利尊氏という人物は、奇妙な人で、「政治」というものに関心が無く、幕府の政治は、弟の直義に任せていました。

そして、足利家の「家宰」という立場にあり、直義と同じく、政治に関わっていたのが高師直です。

この高師直は、武将としての活躍も目覚ましく、1348年、南朝の楠木正行を「四条畷の戦い」で戦死させると、その勢いで、南朝の本拠地である吉野までも侵攻し、南朝の後村上天皇は、さらに奥地の賀名生へと脱出します。

 

さて、幕府の政治を見ていた高師直、足利直義の二人は、激しく、対立し、高師直が吉野を陥落させると、その対立が、爆発します。

まず、動いたのは直義で、師直を政治的に失脚させ、更に、殺害まで図ろうとしますが、この計画は、失敗。

逆に、高師直は、軍勢を率いて京都に入ると、武力にものを言わせて、直義の失脚を尊氏に要求し、屋敷を包囲された尊氏は、師直の要求を受け入れ、直義は、幕府の政治から、手を引くことに。

しかし、命の危険を感じていた直義は、京都を脱出して、挙兵。

ここで、師直派、直義派に全国の武士が分裂し、戦闘が始まり、混乱に陥ります。

「観応の擾乱」の始まりです。

 

この時、足利尊氏は、高師直を支持します。

しかし、直義派が、師直派を圧倒。

足利尊氏、高師直は、足利直義に降伏をします。

高師直は「出家」をするという条件で降伏をしたのですが、護送中に、襲撃を受け、一族、共に、殺害をされてしまいます。

 

高師直は、排除されたものの、足利尊氏と弟、直義との対立は続き、ついに、武力衝突。

今度は、尊氏派が、直義派を圧倒し、直義は、鎌倉で尊氏に降伏。

1352年、直義は、尊氏に降伏をして間もなく、鎌倉で急死。

尊氏によって毒殺をされたという説も、有力だそうです。

ここに「観応の擾乱」は、終結します。

 

この「観応の擾乱」には、上に見た、高師直、足利尊氏と、足利直義の争いに加え、南朝勢力の動き、更に、足利直冬の動きと、複雑なものが加わります。

更に、全国の武士が、様々な勢力に分かれ、入り乱れて、戦うことになり、更に、複雑です。

 

何で、このような「混沌」とした時代になってしまったのか。

 

個人的には、やはり、足利尊氏の政治への「無関心」が大きな原因なのだろうと思うところ。

そして、尊氏は、政治には「無関心」だったようですが「権力」には執着があったようで、これが混乱に拍車をかけたのだろうと思っています。

 

さて、実際は、どうだったのでしょうね。