両児山の近くにある「与太郎神社」に行ってみました。
この「与太郎神社」は、「足腰の病気」にご利益がある神社として知られていて、地元では「与太郎さま」と呼ばれているそう。
正面、社殿。
入口の右手に「百度石」がありますね。
この「百度石」とは、「お百度参り」の時に使うものだそう。
この「百度石」を基点にして、神様との間を、百回、お参りをして、願掛けをする時に使うそうです。
社殿、近づいてみる。
正面、やや、左から撮影。
社殿、東側から。
多くの絵馬と、千羽鶴が吊るされていますね。
正面にある石柱には、この「与太郎さま」の由来が書かれているよう。
文字は、少し、風化をしていて、読みづらい。
与太郎神社の東隣に、このような建物が。
今は、使われていないようですが、昔は、この神社にお参りをする人たちが、ここで集っていたのでしょうか。
与太郎神社の西隣は、不定期で「与太郎せんべい」を売っているようです。
ちなみに、お線香とロウソクは、お店の前で売っていました。
さて、ここに祭られている「与太郎さま」とは、「宇喜多与太郎基家」のこと。
戦国時代に、この辺りで行われた「八浜合戦」で、宇喜多基家は、戦死をすることになる。
どうも、基家は、鉄砲の弾に当たって戦死をしたということのようですが、地元の言い伝えでは、足に負傷をした基家が、草むらの中に隠れていたところ、毛利軍の捜索の中で、村の人たちが「ここに隠れている」と教え、基家は、毛利軍によって討たれたということ。
村人は、「基家に、申し訳ないことをした」と後悔し、ここに、基家を祭ったそうです。
さて、この宇喜多基家は、宇喜多春家の子ということ。
亡くなった時は、まだ、十代だったよう。
宇喜多春家は、宇喜多直家の弟、宇喜多忠家と同一人物なのではないかという説もあるそうです。
ちなみに、この宇喜多基家が、「八浜合戦」で戦死をした時に、身に付けていたと言われる「甲冑」が残されているそうですね。
しかし、その甲冑は、宇喜多秀家の養子、宇喜多小八郎元家が、「関ケ原の戦い」で身に付けていたのものという説もあるそう。
甲冑の兜には、鉄砲の弾が貫通をした跡があるということ。
個人的な推測としては、宇喜多基家の甲冑である可能性は、低いのではないでしょうかね。
宇喜多基家は、宇喜多氏の菩提寺である瀬戸内市邑久町の大賀島寺に葬られたそうです。
日本では、この「与太郎さま」のように、実在の人物を、死後、「神様」として祭ることが多いですよね。
あの世に行った人が、大きな力を持って現世に影響を及ぼす。
そういう思想が、昔から、日本人の中には、あるようです。