足利尊氏との戦いに敗れ、吉野に逃れた後醍醐天皇が開いた朝廷を「南朝」と呼びます。

ちなみに、足利尊氏が、後醍醐天皇と戦うため、大義名分として担いだ朝廷を「北朝」と呼ぶ。

日本の歴史上、二つの朝廷、二人の天皇が存在をした異例の状態。

 

個人的に、この「南朝」に関心を持っています。

この「南朝」が生まれる原因となったのは、皇統が「持明院統」「大覚寺統」の二つに分かれたこと。

この皇統が分裂をするきっかけから、南朝の成立、そして、南北朝の合一を経て、南朝は消滅をする訳ですが、南朝の「影」と呼べるものは、その後も、存在を続け、その「影」が消えるまで、全ての歴史を追ったのが「南朝全史」です。

 

 

なかなか、興味深く、面白い。

 

そもそも、鎌倉幕府は、天皇の皇位継承問題に介入をしようというつもりは無かったようですね。

しかし、朝廷の方で、幕府の、この問題への介入を望み、それに関わっているうちに、幕府が、皇位継承に大きな影響力を持つようになったという経緯のよう。

そして、「持明院統」「大覚寺統」が、それぞれ、交互に、天皇を出すということが決まったようですが、その中で、持明院統は、幕府への依存を強めて行き、逆に、大覚寺統は、「天皇親政」を目指す方向に向かって行ったという経緯のよう。

 

そして、大覚寺統から後醍醐天皇が誕生をすることになる。

 

なぜ、後醍醐天皇が、鎌倉幕府を倒さなければならなかったのか。

 

実は、後醍醐天皇は、本来、皇位に就くはずの人物ではなかったそうですね。

しかし、本命の天皇につなぐための「中継ぎ」「代打」として、後醍醐天皇は、皇位に就くことになる。

そのため、このまま、じっとしていては、そのうち、幕府の命令で、皇位を譲らなければならない。

そして、自分の子供に、皇位を継承させることも出来なくなる。

後醍醐天皇が、天皇であり続け、自分の子供に皇位を継承させるためには、鎌倉幕府は、倒さなければならなかったということ。

 

そして、後醍醐天皇は、見事、幕府を倒した訳ですが、足利尊氏に敗れ、京都を去らなければならなかった。

吉野に移り、そこで「南朝」を開く。

 

この「南朝」に関しては、極端に史料が少なく、よく分からないというのが実情のよう。

しかし、少ない史料を元に、南朝の歴史をたどっている。

 

南朝は、規模は小さいながらも、朝廷としての体裁を整えていたようですね。

そして、後醍醐天皇の死後、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇と続き、この後亀山天皇の時代に、室町幕府第三代将軍足利義満の交渉の結果、南北朝は合一されることになる。