杉野計雄という人。
彼もまた、零戦搭乗員。
しかし、零戦搭乗員として最初の実戦は、ミッドウエー海戦と、少し遅い。
更に、最初の空中戦での敵機の撃墜は、1943年11月2日と、かなり遅い。
零式艦上戦闘機が、アメリカ軍機に対して、アドバンテージを失った頃に登場し、終戦までの間に、32機の撃墜を記録したエースパイロットの一人。
上の本は、その杉野計雄さんの回想録です。
しかし、岩本徹三さんの本とは違い、「空戦録」というよりも、「零戦搭乗員の日常」と言った感じの印象です。
空中戦の記録よりも、日々の出来事に重点を置いて、記されている。
それは、それで、とても興味深い本でした。
杉野さんは、元々は、駆逐艦に乗っていたのですが、志願をして、戦闘機搭乗員となる。
そして、戦闘機搭乗員としての緒戦は「ミッドウエー海戦」ということになるのですが、杉野さんは、ミッドウエー島攻略後に、ミッドウエー島に駐留する部隊の隊員だったので、空母「赤城」に乗ったまま、戦闘に参加することなく、「赤城」の沈没によって、駆逐艦に救助をされている。
その後、商船改造の小型空母「大鷹」の戦闘機隊に配属をされるのですが、同じ戦闘機隊に、後にエースパイロットとして名をはせる谷水竹雄、杉田庄一の二人も居た。
これは、偶然ではなく、速度が遅い上に、飛行甲板の小さい商船改造空母に離発着をする艦載機搭乗員には、高度な操縦技術が求められる。
杉野計雄、谷水竹雄、杉田庄一ら、後にエースパイロットになる人たちは、非常に優れた操縦技術を持っていたということ。
ちなみに、零戦にも、操縦者の「癖」がつくようで、操縦技術に優れた人の愛機は、他の機体よりも、性能が向上して行くそう。
そのため、杉野さんは、よく、他の人から「機体を交換してくれないか」と頼まれたそう。
杉野さんは、非常に、貫禄のある顔をしていたそうで、よく、自分よりも地位の上の人から、更に、上の地位の人と勘違いをされて、挨拶をされることがあったそう。
また、非常に、鋭い目つきをしていたそうで、上官から「お前の目は怖いから、こちらを見るな」と言われることもあったとか。
なかなか、面白い。
しかし、杉野さんは、人を殴るということは、絶対にしなかったそう。
また、自分の部下にも、他人を殴ることを禁じたということ。
軍隊では当たり前の「鉄拳制裁」というものに、杉野さんは反対だった。
これを見ても、優れた人格の持ち主だったということが分かる。
そして、杉野さんは、とても、部下に慕われた人でもあったよう。
杉野さんは、実戦部隊で戦闘を経験する一方、教官として、多くの部下の指導もしている。
ある時、杉野さんは、自身が撃墜され、怪我をして入院をする経験をしている。
その時、両足が動かなくなっていたそうで、「このまま、両足が動かないのなら」と、拳銃での自殺を決意し、実際に、引き金を引いたそう。
しかし、その異変を察していた部下が、事前に、拳銃の弾丸を抜いていたので、死なずに済んだということ。
それから間もなく、無事に両足は動くようになったそう。
部下の機転によって、杉野さんは、命を失わずに済んだ。
実は、この杉野さんもまた、特攻隊員に任命されている。
僕の記憶が定かではないですが、確か、自ら、特攻隊に志願をしたものの、当初は、認められなったとか。
しかし、その後、特攻隊員に任命されることになる。
しかし、杉野さんは、特攻隊員に任命をされたものの、特攻隊として出撃をすることは無かった。
やはり、人望の厚い、歴戦の、熟練搭乗員を、特攻に出す訳には行かなったということなのでしょうか。
ちなみに、ウィキペディアを見ると、戦後、杉野さんは、公職追放が解除をされた後、航空自衛隊に入り、教官も務めているそうですが、その時の教え子の中の一人が、あの御巣鷹山に墜落をした日航123便のパイロットだったそうです。
そして、その日航123便が墜落をした上野村の村長は、杉野さんが佐世保の部隊に居た時の上官だった人物だそう。
あの頃は、まだ、戦争を経験した人たちが、現役だったんですね。
しかし、今では、あの戦争を経験した人は、残り少ない。
今後、あの戦争を、どう語り継ぐのかは、大きな問題なのでしょう。