岩本徹三という人物。

戦記物が好きな人なら、知らない人は、居ないでしょう。

日中戦争から太平洋戦争が終わるまで、海軍航空隊の零戦搭乗員として活躍。

その撃墜数は、恐らく、海軍の戦闘機搭乗員としては、最高と思われる。

撃墜数を正確にカウントするのは不可能なことで、何機撃墜をしたのかということについては、色々と説のあるところ。

少ないものでは、80機程度、多いものでは、200機以上と書かれたものを見た記憶があります。

 

戦闘機搭乗員としての初陣は、1938年2月25日。

ここから、1945年8月15日まで、岩本徹三は、ほぼ、最前線で、零戦搭乗員として戦い続けた。

 

 

この本は、岩本徹三さんが、書き記した、自身の「空戦録」です。

彼が経験をした空中戦の数々が、詳細に記されている。

岩本徹三さんは、38歳という若さで、敗血症で亡くなることになる。

この本は、岩本さんが後に出版をしようと思ってノートに書き記していたものが、死後、世に知られることになり、出版をされることになったよう。

 

太平洋戦争で活躍をした零戦搭乗員の回顧録として有名なのは、坂井三郎さんの書いた「大空のサムライ」でしょう。

 

 

 

坂井三郎さんは、最も、有名な零銭搭乗員ではないでしょうか。

僕は、子供の頃に、坂井三郎さんに関する戦記物を、いくつか先に読んでしまったために、坂井三郎さんについては、大体のことを知ってしまったので、改めて「大空のサムライ」を読んでみようという気にはならなかったため、未読。

しかし、ベストセラーになったということは、面白い本なのでしょう。

 

さて、岩本徹三さんの「零戦撃墜王・空戦八年の記録」から、印象に残っていることを、いくつか紹介します。

 

まずは、やはり、岩本さんの空中戦の「スタイル」について。

 

やはり、空中戦の極意は、「出来るだけ早く、敵を発見し、出来るだけ早く、敵よりも有利な立場を取る」こと。

そして、有利な立場から、一撃を加えて、その場を離脱する。

これは、常識のようですが、当時、日本の戦闘機搭乗員は、軽快な戦闘機の運動性能に頼る「横の運動」つまり「旋回性能」で空中戦をするというのが、一般的だったよう。

しかし、欧米では、すでに、エンジンの馬力を利用した、「縦の運動」つまり、上空から一撃をかけ、下に抜ける「一撃離脱」が、一般的な空中戦だったよう。

偶然かどうか、岩本さんは、この欧米の戦闘機搭乗員と同じスタイルで空中戦をしていた。

 

そして、「珊瑚海海戦」について。

 

太平洋戦争の開戦時、岩本さんは、空母「瑞鶴」の戦闘機搭乗員だった。

熟練で、特に、技量に優れた戦闘機搭乗員は、空母の上空を守る「直掩」という任務に就くことになる。

真珠湾攻撃では、岩本さんは、この「直掩」の任務のため、真珠湾攻撃には参加をしていない。

そして、この空母「瑞鶴」は、世界の戦史で初の「空母」対「空母」の海戦である「珊瑚海海戦」を経験することになる。

岩本さんは、この時も「直掩」の任務に就き、空母「瑞鶴」を敵の攻撃機から守ることになるのですが、敵を攻撃に向かった味方の攻撃機の「半分が、帰って来なかった」ということに「衝撃を受けた」と書かれていました。

 

日本の軍用機は、「防弾装備」が、ほぼ、無いということが特徴。

なぜかと言えば、日本では、高性能で高馬力のエンジンを作ることが出来なかったために、航空機の「軽量化」で、性能を上げることになる。

「軍用機」が「防弾装備」を持たないということは、欧米では、考えられない危険なこと。

これは、敵艦隊の猛烈な対空射撃の弾幕の中を進む攻撃機、爆撃機でも同じで、日本の空母艦載機は、敵艦隊を攻撃するたびに、甚大な搭乗員、機体を失うことになる。

ここにも、日本軍の「人命軽視」の思想が、よく現れている。

そのため、1942年10月26日の「南太平洋海戦」を最後に、日本の空母機動部隊は、もはや「戦力」として役に立たなくなってしまう。

ちなみに、この「南太平洋海戦」に、岩本さんは参加していません。

 

そして、日本軍の「人命軽視」は「特攻隊」に繋がる訳ですが、岩本さんは、この「特攻」には、反対だった。

「戦闘機搭乗員は、敵を撃墜して、帰って来るのが仕事だ」

と、岩本さんは、考えていた。

 

そのため、岩本さんは特攻隊員になることは無かったのですが、特攻隊の直掩の任務には、度々、就いたということ。

特攻隊の「直掩」は、特攻機を敵の戦闘機から守るのと同時に、特攻機の戦果を見届けるという役目もあったのですが、この直掩の任務は、敵の戦闘機との乱戦となり、特攻機の戦果を確認するということは、とても無理な話しだったようです。

岩本さんのようなトップレベルの技量を持つ戦闘機搭乗員でもそうなのですから、他に人では、とても、役目を果たすことは困難だったのでしょう。

 

しかし、岩本さんほどの優れた搭乗員でも、二度、撃墜をされる危機があったよう。

 

一度目は、ラバウルに居た時、エンジンの不調で、戦場を離脱しようとした時に、敵機に後ろにつかれて、銃撃を浴びたということ。

二度目は、特攻隊の直掩任務を終え、基地に戻る途中に、突然、敵機に後ろにつかれ、銃撃をされたということ。

この一度目、二度目とも、機体を穴だらけにされたものの、奇蹟的に、岩本さん自身は無傷で、基地に戻ることが出来たそう。

いかに、優れた技量を持っていっても、戦場で、生き残ることが出来るのかどうかは、まさに「紙一重」だということが分かる。

 

ちなみに、坂井三郎さんは、ラバウルに居た時に、ガダルカナル島に遠征をした時、敵機の後ろについたところ、敵機の後方銃に撃たれ、その銃弾が頭部に命中。

坂井さんは、そこから、途中で、度々、意識を失いながらも、三時間も飛び続け、奇蹟的に、ラバウルに戻ることが出来た。

 

1945年8月15日。

日本は、敗戦を迎えますが、その時からしばらく、岩本さんは「抜け殻」のようになてしまったと書かれていました。

やはり、日本の勝利を信じて、命を懸けて、戦い続けた戦闘機搭乗員の実感だったのでしょう。