公園の南に、鳥居と、台座の部分だけがあります。
かつては、ここにも、社があったのでしょう。
少し、上に登ると、このようなものが。
正面の石板には、大東亜戦争の戦没者を慰霊するものと書かれていました。
ここから、少し登ると、小規模な墓地がありました。
墓石に書かれた年号を見ると「天保」「安政」のものがあったようで、江戸時代の終わり頃のお墓が、今でも、ちゃんと守られているというのは、なかなか、凄い。
そして、墓地を過ぎ、南の丘の一番上まで来ると、このような、奇麗に整備をされた広場がありました。
そして、広場の東に、このような木の橋が。
実は、今日、この両児山に来たのは、これを見るため。
この木の橋が架かっているのは、大きな溝の上で、この「溝」は、広場を作るために掘られたものではなく、戦国時代、この両児山に城を築いた宇喜多軍が掘った「空堀」の跡です。
この戦国時代の「空堀」が、広場の東側に、かなりの規模で残っている。
初めて見るので、なかなか、感動です。
空堀のやや下に、このような道がありましたが、これも、恐らく、戦国時代の遺構を利用したものでしょう。
西側から見た、両児山の遠景。
二つの丘が、よく分かります。
戦国時代に、この両児山に城を築き、陣を置いた宇喜多軍と、常山城、麦飯山に陣を置いた毛利軍との間で、合戦が起こります。
それが、「八浜合戦」です。
天正9年(1581)の末に、備前国を支配していた戦国大名、宇喜多直家が病死します。
その頃、織田信長の武将、羽柴秀吉が、中国地方に侵出をしていて、宇喜多氏は、すでに織田信長の配下にありました。
そして、羽柴秀吉は、宇喜多氏に、児島に築城を命令。
それによって宇喜多氏が築城したのが「両児山城」です。
備前国の児島は、未だ、毛利氏の支配下にありましたが、その児島の東端にある小串城を拠点にしていた高畠氏が、毛利氏から、羽柴秀吉の配下に移ります。
この高畠氏の裏切りを知り、毛利氏は、穂田元清を、児島に派遣。
天正10年(1582)2月18日、穂田元清は、常山城の南東にある麦飯山に陣を置きます。
そして、21日、宇喜多軍が、児島に渡海し、両児山城に入ります。
同日、両児山、麦飯山の間にある「大崎」地区一帯で、合戦が勃発。
これが「八浜合戦」です。
宇喜多軍は、大将である宇喜多基家が戦死するという被害を受けますが、いわゆる「八浜七本槍」の活躍によって踏みとどまり、両児山城での戦いにはならなかったよう。
この宇喜多基家を祭ったのが、両児山の近くにある「与太郎神社」です。
そのうちに、見に行こうと思っているところです。