たいていの平凡な人、というと意味的に重複しているけれどw 文字通りご多分に漏れず、ほとんどすべての分野で、自分もそのカテゴリに含まれている。「ほとんどすべての」と書いたが、それは自分がこの世のすべてを網羅したわけでもなく、生きているうちにできるはずもないから言い切ることが出来ないというだけのことであって。これまでの人生で知る限りにおいては「すべての」分野で自分は凡庸であった。この年になって隠された非凡な才能が発掘され開花する、という可能性も極めて低い。ゼロじゃないけれども。信じてすがるにはあまりに弱い光であり。ある日突然、机の引き出しより未来からやってきた機械猫が現れるとか、空から理想的な女の子と自分にしか操れないバトルスーツが降ってくるとかいうくらいにあり得ない、まあゼロと言っても大差ないレベルw 巻き返しの可能性は希望というより妄想に近いので、わずかでも持っていることすら厭わしい。
何をやっても、自分よりできる人はゴマンといる、というこの世界で。どう生きたらいいのか。
すでにいちばんになることなど諦めている。いちばんになれないから不幸とか、そこまで思い上がってもいないが、どこに行っても人手不足、チョットくらい足りないやつでもいないよりはマシ、という時代はとうに終っている。そんな世の中で、自分の存在意義を見いだすのはかなり困難だ。しかも労働力としての価値は年々衰えていく。
知的経験的には上がってしかるべきじゃね?という人もいるだろうが、みんながそのバスに乗れるわけじゃない。定員は世間的に考えられているよりは少ないんじゃないか思う。人材育成、自己研鑽の余裕がない零細企業勤務や個人事業主はチケットを手にすることさえ困難だろう。乗れた時点で、その人はすでに十人並み以上のビジネスマンであり職人であり何者かなのだ。この文章ではそのバスを見送ったあとの、とはいえ依然能力差は残されている世界の、真ん中より下あたりでどう生きるかという話をしている。そゆことあっさり言えちゃう人は、すでにそのバスの車窓から世界を見下ろしているのだろう。
とりあえず、自分が好きなことを見つけて、それで楽しければいいじゃん。という理屈で、まずは武装するわね。次に半径5メートルくらいの範囲の人(つまり家族とか友達)に喜んでもらえたり、役に立てたり、たとえば子育て介護とかだけれど、すれば自分の存在意義みたいなものもいくらか満たされる...のではないかと推測する。私には家族友達は少ないし、別にアタシがいなくなっても彼らの誰ひとり困らないと確信できるので、その辺はあまり実感できていないが。私のように身近な縁が薄い人たちは、ボランティア活動とかに熱を上げてみたり。まぁアタシの位置から周囲を見渡すと、そんな印象。
問題は 好きとか楽しいとか、家族友達みんな仲よし♪人助けができてよかった、とかいう「ちいさな幸せ(自己満足)」では食っていけないということだ。楽しければいいじゃん、と開き直れるのは喰えて、あるいは喰わせてもらえて初めて言えることなのだ。(だからこそ、このカテゴリ内の若い女子たちの間では「愛され」熱が高まるのだと思うけれど。女も自立だキャリアだと煽られた世代のアタシだって正直もうしんどい。養ってもらえるものならもらいたいわ、と無理を承知で言ってみるw)
労働は他者を満たすことにより報酬を受け取ることなのだから、自己満じゃお話しにならないというのは当然だ。労働は「創造」と「代行」に分けられると思うけど、乗り遅れ組の真ん中より下に残されている選択肢はまぁ後者だろう。誰でもできるけど、様々な理由によりお金を払って人にやってもらおう、という類いの単純労働。それでさえ自分よりできる人はたくさんいるけれど、喰っていかなきゃいけないから、頭下げまくって、なんとかしがみつくようにして、「お仕事」を頂戴する日々。
それでも、例えば 空がきれい、花がキレイ、猫が可愛い♪などと 重箱の隅をつつくように「ちいさな幸せ(自己満足)」を見いだすことは出来る。辛うじてできるし否定もしないけれども。
基調はブルー、である。辛いことばかりとは言わないけど、おおむね楽しいはずがない。なんといっても普通すぎるほど普通だからww 人を殺して死刑にしてもらおうとかいうほどラディカルにもなれないし。死が向こうからやってくるまでこのまま、ブルーなままなんとか生きてくんだろう。
停滞を生むのは絶望じゃなく諦観だとかいう人がいたけど、そうだね。たぶんそう。若い頃はもっと絶望してた。だけど結局、絶望をバネに来れたとてここまでなんだもの。もういいや、ってなるよ普通w 認めてしまうことでもう楽になりたいんだ。
人と比べるのヤメたら?っていう人がいるかもしれないけど すくなくとも仕事っていう、能力が問われる場で、それをしないでいられるのか?って逆に聞きたい。よっぽど浮世離れした鈍感力Wの持ち主でもない限り、いやでも目に耳に入ると思うんだけどね。
もちろん、能力差で身入りが決まるのは全然構わない。当然すぎて気にもしちゃいない。だけど、自分が相当頑張ってようやく、のことをサラリとやってしまう人が、どこに行ってもいる。飄々と遥か先を行く背中がイヤでも目に入る。それもまあ当然っちゃ当然なのだけれど、なぜかそこは気にならない、とは言えないんだなー。存在価値だけじゃなくて存在意義や努力の意味さえも揺るがされるから、なのかな?感情論と言えばまあそう。
まあいいや。背伸びしてようやく届くところにしか仕事がないのなら、背伸びをし続けるしかないのだ。自分ひとり+α喰わすのだってこの体たらくじゃ、情けないのも仕方がないやね。
何をやっても、自分よりできる人はゴマンといる、というこの世界で。どう生きたらいいのか。
すでにいちばんになることなど諦めている。いちばんになれないから不幸とか、そこまで思い上がってもいないが、どこに行っても人手不足、チョットくらい足りないやつでもいないよりはマシ、という時代はとうに終っている。そんな世の中で、自分の存在意義を見いだすのはかなり困難だ。しかも労働力としての価値は年々衰えていく。
知的経験的には上がってしかるべきじゃね?という人もいるだろうが、みんながそのバスに乗れるわけじゃない。定員は世間的に考えられているよりは少ないんじゃないか思う。人材育成、自己研鑽の余裕がない零細企業勤務や個人事業主はチケットを手にすることさえ困難だろう。乗れた時点で、その人はすでに十人並み以上のビジネスマンであり職人であり何者かなのだ。この文章ではそのバスを見送ったあとの、とはいえ依然能力差は残されている世界の、真ん中より下あたりでどう生きるかという話をしている。そゆことあっさり言えちゃう人は、すでにそのバスの車窓から世界を見下ろしているのだろう。
とりあえず、自分が好きなことを見つけて、それで楽しければいいじゃん。という理屈で、まずは武装するわね。次に半径5メートルくらいの範囲の人(つまり家族とか友達)に喜んでもらえたり、役に立てたり、たとえば子育て介護とかだけれど、すれば自分の存在意義みたいなものもいくらか満たされる...のではないかと推測する。私には家族友達は少ないし、別にアタシがいなくなっても彼らの誰ひとり困らないと確信できるので、その辺はあまり実感できていないが。私のように身近な縁が薄い人たちは、ボランティア活動とかに熱を上げてみたり。まぁアタシの位置から周囲を見渡すと、そんな印象。
問題は 好きとか楽しいとか、家族友達みんな仲よし♪人助けができてよかった、とかいう「ちいさな幸せ(自己満足)」では食っていけないということだ。楽しければいいじゃん、と開き直れるのは喰えて、あるいは喰わせてもらえて初めて言えることなのだ。(だからこそ、このカテゴリ内の若い女子たちの間では「愛され」熱が高まるのだと思うけれど。女も自立だキャリアだと煽られた世代のアタシだって正直もうしんどい。養ってもらえるものならもらいたいわ、と無理を承知で言ってみるw)
労働は他者を満たすことにより報酬を受け取ることなのだから、自己満じゃお話しにならないというのは当然だ。労働は「創造」と「代行」に分けられると思うけど、乗り遅れ組の真ん中より下に残されている選択肢はまぁ後者だろう。誰でもできるけど、様々な理由によりお金を払って人にやってもらおう、という類いの単純労働。それでさえ自分よりできる人はたくさんいるけれど、喰っていかなきゃいけないから、頭下げまくって、なんとかしがみつくようにして、「お仕事」を頂戴する日々。
それでも、例えば 空がきれい、花がキレイ、猫が可愛い♪などと 重箱の隅をつつくように「ちいさな幸せ(自己満足)」を見いだすことは出来る。辛うじてできるし否定もしないけれども。
基調はブルー、である。辛いことばかりとは言わないけど、おおむね楽しいはずがない。なんといっても普通すぎるほど普通だからww 人を殺して死刑にしてもらおうとかいうほどラディカルにもなれないし。死が向こうからやってくるまでこのまま、ブルーなままなんとか生きてくんだろう。
停滞を生むのは絶望じゃなく諦観だとかいう人がいたけど、そうだね。たぶんそう。若い頃はもっと絶望してた。だけど結局、絶望をバネに来れたとてここまでなんだもの。もういいや、ってなるよ普通w 認めてしまうことでもう楽になりたいんだ。
人と比べるのヤメたら?っていう人がいるかもしれないけど すくなくとも仕事っていう、能力が問われる場で、それをしないでいられるのか?って逆に聞きたい。よっぽど浮世離れした鈍感力Wの持ち主でもない限り、いやでも目に耳に入ると思うんだけどね。
もちろん、能力差で身入りが決まるのは全然構わない。当然すぎて気にもしちゃいない。だけど、自分が相当頑張ってようやく、のことをサラリとやってしまう人が、どこに行ってもいる。飄々と遥か先を行く背中がイヤでも目に入る。それもまあ当然っちゃ当然なのだけれど、なぜかそこは気にならない、とは言えないんだなー。存在価値だけじゃなくて存在意義や努力の意味さえも揺るがされるから、なのかな?感情論と言えばまあそう。
まあいいや。背伸びしてようやく届くところにしか仕事がないのなら、背伸びをし続けるしかないのだ。自分ひとり+α喰わすのだってこの体たらくじゃ、情けないのも仕方がないやね。