よくあちこちで見かけるけどさー。自分のこと好きにならなきゃいけない。っていうのも、強迫じみてると最近思うんだよね。自分のこと愛せなければ人も愛せるはずがないとかさ。ちょっと待て、と思うよ

そりゃ嫌いよりは好きなほうが楽に決まってるけど、そういう人は自分の運の良さに感謝すればいいだけでさ。自分という魂の乗り物は、自分で選べるわけじゃないでしょ。たまたま来たタクシーに乗っちゃうようなものであってさ。普通に考えて、当たり外れありまくりでしょう。どんな人でも必ず好きになれるとは限らないように、たまたま自分に備わった基本性格を、自分が好きになれないってことは同じような確率で十分あり得ると思う。

自分、という存在も 他者と同じように対象化してみれば 自分のこと愛せなければ人も愛せない、なんてまるで筋が通ってないことに容易に気付くはず。会社にどうしても好きになれない同僚がいたって、恋人や家族を愛せない、なんてことはないのと一緒。そのどうしても苦手な人格がたまたま自分の中にいるってパターン、あり得なくないでしょ?他人は変えられない、と諦観してる人が、自分は変えられるはずだと信じ込んでいたりする。その根拠は?自己を他者と区別して特別扱いする考え方には、どうも馴染めないんだなあ。だっていまの自分だって、一から自分で作り上げたものじゃないでしょ?ある程度、というかかなりの部分与えられたものであって。どんなに使いにくい道具でも死ぬまでそれでなんとかやっていかなきゃならないわけだから、使い方はある程度工夫しても、慣れや愛着以上になるかどうかは必然とまで言えないだろう。

かように、自分を好きになる、愛するのは当たり前のことじゃないと私は思う。できてる人はいるだろうけど、誰でもできてしかるべきなんて思い上がって布教するのはいかがなものか。できずにいる人をかわいそうな人みたいに扱うことで、自分がいいことしたみたいな気分になって、優越感に浸ってんじゃないの?できなきゃいけないと思わせることでどれだけ苦しめてるか、わかってんの?最初にも言ったけど、そんな人はただ己の幸運に静かに感謝してればいいんだよ。

大事なのは、愛せるかどうかじゃなくて 愛せなくてもいいんだ、と思えることのような気がする。愛せなくてもまあ許せればいい。しょーがねーなこのポンコツ、と舌打ちしながらでも毎日乗って出かけ、休日には油を注してやる車のように。自分というのは愛や慰撫の対象ではなく、毎日使う生活の道具だ(しかも支給品w)。もっともっと乾いた関係のように、私には思えるんだが。

大事なことだから2回言います。自分のこと愛せなくたってそれはそれでアリなんだ。普通によくあることなんだ。自分というのは一方的に与えられた魂の乗り物、生活の道具として日々使いこなせればそれでいい。時々ダメダメなポンコツでも、こわれない程度に手をかけてやり、終点までだましだまし付き合えば、やがてよい相棒くらいにはなれるだろう。それを愛さなくちゃ、でも愛せない、ってずっと葛藤してたら、そんなぬるくて心地よい関係に至ることすらできないかもしれない。愛せなくても、許せればそれでいいんだ。