親鸞聖人の、「ただ念仏して弥陀に助け
られまい
らすべし」の「ただ」の誤解が
甚だしい。
ー「歎異抄をひらく」P173ー
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「弥陀の救いは無条件である」と大谷大学に留学

していた台湾の僧侶から聞いて、喜んでいた香港

本願念仏会の人達から、この日本人の言うことは

おかしい、今まで聞いてきた教えと違う!と火の手

が上がったのです。\(*`∧´)/


<1997年11月26日>

 4日目の終わり間際に、公然と非難攻撃が起き
ました。


「今まで、念仏だけで、誰でも救われると聞いてきた。
無条件だと聞い
てきたが、あなたは、信心決定せねば
助からんというが字も読めない
人、仕事が忙しくて
聞けない人は、どうなるのか。信心決定という条件

つけているじゃないか。間違っている!」


これにどう答えるか。おざなりの答えでは、納得しない
どころか、
これまで喜んで聞いておられた人達も御縁
がなくなるかも知れない。
家に戻り、夕食もそこそこに、どう答えれば一番いいか
悩みに悩み
ました。

「弥陀の本願は無条件ではない。あなたが聞き
間違っています!」と
答えることもできるが、彼らは
必ず、台湾の出家の僧侶の教えをあなたは否定
するのか!
在家のおまえに何が分かる!と反発
し、皆
を連れて去ってゆくだろう、
どう答えれば、どう言えば、と考えているうちに
時間
がどんどん過ぎてゆきました。

そして夜が白々と明けかけた朝4時
頃、
「よし!これでいこう!」と、心が決まったのです。

★誤りを正す

5日目、法話のはじめから、女性2人は回りの人
たちに耳打ちして、

「あの日本人の話は間違っている。答えられないよ、
フフフッ。」

とあざ笑っているのが分かりました。



さあ、破るしかない。厳しい言い方では反発される
のでできるだけ感情を抑えて、
丁寧に、穏やかな
口調で始めました。


 「昨日、弥陀の本願は無条件じゃないのか?
と言っている人があり
ましたが、、、」

と言うと、2人の動きが激しくなり、耳打ちのスピード
増しました。

彼らが師と仰ぐ台湾の僧侶が、絶対無条件、と
言っているので、
こう言いました。
 
「弥陀の救いは無条件、というのは勿論、間違いでは
ありません。
しかし、無条件だったと知らされるのは、
縦の線の一念の時なのです。

聞きはじめは、信仰の幼稚園で、『無条件じゃそうな、
有難いことじゃ』と思って
いるのです。

それがこの道を正しく進んでいくと、『本当に阿弥陀仏
はこんな私を無条件で助けて下さるのか?』と
なるの
です。

大無量寿経には『易往而無人』と、お釈迦様は
説かれ
ているし。
『易往而無人』、往き易くして人無し、と読み、極楽
には
往き易いけれども、行っている人が少ないということ
ですが、
往き易いなら、往っている人が多いはずなのに
往っている人が、
少ないとは、どういうことか?

(※中国語で「無人」は人が少ないという意、人が無い

 は「没人」)

どうなった無条件か無条件が分からん、となるのです。

 それが、縦の線のこの一念の時、信心決定した時、
『無条件という言葉も要らない、無条件であった!』と、
初めて知ら
されるのです。
 
また念仏だけで助かると言われましたが、ならば他は
要らないが、「念仏は必要」ということになり、念仏が
条件になるのではないですか?
 
この一念の時、信心決定したら、聞いたのも、称えた
念仏も、やった善も、すべて間に合わなかったと
知らされるのです。

その時『無条件という言葉も要らない、無条件
だった!』と知らされ、同時に一切の自力がすたるの
です。

日本でも、念仏さえ称えれば極楽へ行けると、思って
いる人が多いですから、聞きはじめの人には当然
出てくる質問ですね。」

と、ゆっくり、懇切に話したつもりです。
 
すると、あれだけ騒いでいた2人が、次第に静かに
なり、最後は、借りて来た猫のように、おとなしくなった
ではありませんか!

 ※高森顕徹先生から教えて頂いていた「ただ」を
  「無条件」に置きかえました。

そして、この日、終了後、特に真剣に聞いておられた別
の3人が
「今週の報恩講に参詣したいです。日本に行きたいです
手配をお願いします。」と申し出られたのでした。

香港へ来て1ヶ月余りでのことでした。
 
★大変わり
 
男は意地や我慢が強いのですが、女性は柔軟ですので
夜、非難の急先鋒だった彼女達は、先程までの態度とは
打って変わり、私を、広東鍋料理店(勿論、精進料理)に
招待してくれました。

「誤解しないでもらいたいのですが、私が耳打ちして
いたのは、お婆さんたちが、北京語が分からないので、
通訳していたんですよ。」

明らかな、嘘ですが、
「そうですか!有難う。助かりました!」
と、彼女達の労をねぎらう?と、とても喜び、11月25日
帰国前日、責任者である香港の尼僧さん2人と、彼女達
の合計4人が、デパートへ誘ってくれ、沢山の土産を
買ってくれました。
 
報恩講に御縁のあった人が言っておられました。

「はじめ、疑っていた人達も、続けて聞いて、これは
ひょっとしたら正しい教えかも知れない。この人と友達に
なっておいた方が得だと思って皆、招待するんですよ。」
とのことでした。

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※「歎異抄をひらく」のP175には、以下のように教えて
  下さっています。

では、「ただ念仏して」とは、どんなこと
なのであろうか。
「ただ」とは、ただのただもいらぬ、ただ
じゃったと、無条件の救いに驚きあきれた
ただである。

(*^▽^*)