中華圏では、名前が知られた人で、話も大変うまく、ひき付け
られるのですが、19願、20願の人で、この時、私にも直接、
「勝負は臨終だ。臨終に来迎があるかどうかで浄土往生が
決まるのだ!」と断言されました。
それに対し私は、「勝負は臨終だと言われましたが、それでは
臨終まで、疑いがなくならないということですね?」
と問い返したのです。
なぜそう言えるのか?
臨終の来迎にあって、はじめて阿弥陀仏に救われると言う
のですから、それまでは、「本当に阿弥陀仏は来迎されるの
だろうか?」「間違いなく迎えに来て下されるのだろうか?」
と、弥陀の本願を疑い続けることになるからです。
その時、この方は、どう答えたか?
以下のように断言されたのです。
「疑いはだめだ!疑いが一番悪い!疑ってはならない!!」
ものすごい勢いで、叱りつけるように言われました。
「仏智疑惑」「疑情」、すなわち弥陀の本願を疑う心一つが
生死流転の本源(原因)だと分かっておられるのです。
これはすごいことですが、善導大師、親鸞聖人が教えられた
「深信」とは少し異なる信心であることが分かりました。
(善導大師古塔:1999年3月、チャイナタウン撮影)
このことに関連して、「なぜ生きる」(高森先生監修)を
引用してみたいと思います。
-----------------------------------------------
なぜ生きる2部11章(P200~201)
法の深信ー弥陀の誓願
「かの阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受し
たもうこと、疑なく、おもんぱかりなく、かの願力に
乗ずれば、定んで往生を得、と深信す。」
「この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという、
弥陀の誓いまことだった、とハッキリした」のを
「法の深信」という。
○信じるのは、疑いがあるから
「深信」とは、文字から想像するような「深く信じて
疑わない」ということではない。「信じる」と「深信」とは
異なる。どこがちがうのか。
信じるのは疑いがあるからである。
疑う余地が全くないことは「知っている」という。
火傷でひどい目にあった人が「火は熱いものと信じている」
とは言わないだろう。体験してハッキリ知っているからである。
「わが校では、いじめはないと信じている」と、校長が言う
のは、あるかもしれないという疑いがあるからであろう。
「深信」とは「露チリほどの疑いもなく、明らかに
知らされたこと」をいうのだから、親鸞聖人は、「真に知んぬ」
蓮如上人(聖人の子孫・真宗中興の祖)は、
「今こそ明かに知られたり」と「真知」とか「明知」と言われて
いる。
疑いの心を抑えつけて、信じ込もうとするのとは、まったく
異なるのである。
~ここまで~
られるのですが、19願、20願の人で、この時、私にも直接、
「勝負は臨終だ。臨終に来迎があるかどうかで浄土往生が
決まるのだ!」と断言されました。
それに対し私は、「勝負は臨終だと言われましたが、それでは
臨終まで、疑いがなくならないということですね?」
と問い返したのです。
なぜそう言えるのか?
臨終の来迎にあって、はじめて阿弥陀仏に救われると言う
のですから、それまでは、「本当に阿弥陀仏は来迎されるの
だろうか?」「間違いなく迎えに来て下されるのだろうか?」
と、弥陀の本願を疑い続けることになるからです。
その時、この方は、どう答えたか?
以下のように断言されたのです。
「疑いはだめだ!疑いが一番悪い!疑ってはならない!!」
ものすごい勢いで、叱りつけるように言われました。
「仏智疑惑」「疑情」、すなわち弥陀の本願を疑う心一つが
生死流転の本源(原因)だと分かっておられるのです。
これはすごいことですが、善導大師、親鸞聖人が教えられた
「深信」とは少し異なる信心であることが分かりました。
(善導大師古塔:1999年3月、チャイナタウン撮影)
このことに関連して、「なぜ生きる」(高森先生監修)を
引用してみたいと思います。
-----------------------------------------------
なぜ生きる2部11章(P200~201)
法の深信ー弥陀の誓願
「かの阿弥陀仏、四十八願をもって衆生を摂受し
たもうこと、疑なく、おもんぱかりなく、かの願力に
乗ずれば、定んで往生を得、と深信す。」
「この世も未来も、絶対の幸福に救い摂るという、
弥陀の誓いまことだった、とハッキリした」のを
「法の深信」という。
○信じるのは、疑いがあるから
「深信」とは、文字から想像するような「深く信じて
疑わない」ということではない。「信じる」と「深信」とは
異なる。どこがちがうのか。
信じるのは疑いがあるからである。
疑う余地が全くないことは「知っている」という。
火傷でひどい目にあった人が「火は熱いものと信じている」
とは言わないだろう。体験してハッキリ知っているからである。
「わが校では、いじめはないと信じている」と、校長が言う
のは、あるかもしれないという疑いがあるからであろう。
「深信」とは「露チリほどの疑いもなく、明らかに
知らされたこと」をいうのだから、親鸞聖人は、「真に知んぬ」
蓮如上人(聖人の子孫・真宗中興の祖)は、
「今こそ明かに知られたり」と「真知」とか「明知」と言われて
いる。
疑いの心を抑えつけて、信じ込もうとするのとは、まったく
異なるのである。
~ここまで~