<1999年3月12日>
★唐の都、長安
中国西北地方の街、西安にはじめてやって来た。
(長安城、すなわち西安市の南門 この時、撮ったものです)
中国の大都市は昔はすべて、四方を城壁に囲まれていたが、
交通の妨げにもなる為、現在は西安以外で、四方欠けることなく
完全に城壁が残っている街はないとのこと。高さ12メートル、
幅も12~14メートルあり、車も通れる程の広さだ。ここで毎年、
全長13、7キロの城壁の上を回る、マラソンが開催されるとのこと。
(同じくライトアップされた、南門を内側から撮りました)
日本とは、縁が深く、昔は、長安と呼ばれ、京都、奈良はこの長安
を真似て、造られたのだ。
今回は日本に来ていた西安市観光局の副局長の陳さんと知り合い
是非、本当の中日交流(日中交流は中国では中日となる)がしたい
とのことで、招待を受けての訪問である。
唐の時代、すでに人口100万をようし、世界有数の大都市であった。
シルクロードの、起点もここ。現在は、人口500万、中国西北最大の
都市である。
★玄奘三蔵、1335回忌
中国で一番名の知れた僧といえば、やはり、西遊記で有名な、玄奘
三蔵である。玄奘が遠くインドにおもむき、経典を持ち帰って、翻訳した
のもこの地で、現在も寺が残っている。慈恩寺である。
(慈恩寺大雁塔)
そこにある、大雁塔は、経典を保管した場所であるが、京都奈良の
五重塔などのモデルだが、高さ64メートルのこの塔が西安のランド
マールと言っていいだろう。
玄奘が翻訳した、経典の数は、1335巻。今年は、亡くなって、
1335年目。(664年寂)
(真下から見た、大雁塔)
その経典の数と、死後1335年が、ぴったり合った今年は、玄奘
三蔵の1335回忌の法要がなされるとのことである。
「唐三蔵不遠万里去取経」
玄奘三蔵は、他の三蔵と区別するため、通称「唐三蔵」と呼ばれて
いる。天竺までの遠路を、万里とあらわし、万里を遠いと思わず、
経典を取りに行ったという意味で、中国では、玄奘三蔵の功績を
あらわす時、よく言われる言い方だ。
もし、三蔵法師達が、お経を運んでくれなかったら、翻訳してくれ
なかったら、漢訳一切経七千余巻は、私達、日本人の目に触れる
ことはなかったかと思えば、中国の先達には、どれだけ感謝しても
し過ぎることはないと思うのだ。
遠く、かの時代に思い馳せずにおれなかった。
。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
★唐の都、長安
中国西北地方の街、西安にはじめてやって来た。
(長安城、すなわち西安市の南門 この時、撮ったものです)
中国の大都市は昔はすべて、四方を城壁に囲まれていたが、
交通の妨げにもなる為、現在は西安以外で、四方欠けることなく
完全に城壁が残っている街はないとのこと。高さ12メートル、
幅も12~14メートルあり、車も通れる程の広さだ。ここで毎年、
全長13、7キロの城壁の上を回る、マラソンが開催されるとのこと。
(同じくライトアップされた、南門を内側から撮りました)
日本とは、縁が深く、昔は、長安と呼ばれ、京都、奈良はこの長安
を真似て、造られたのだ。
今回は日本に来ていた西安市観光局の副局長の陳さんと知り合い
是非、本当の中日交流(日中交流は中国では中日となる)がしたい
とのことで、招待を受けての訪問である。
唐の時代、すでに人口100万をようし、世界有数の大都市であった。
シルクロードの、起点もここ。現在は、人口500万、中国西北最大の
都市である。
★玄奘三蔵、1335回忌
中国で一番名の知れた僧といえば、やはり、西遊記で有名な、玄奘
三蔵である。玄奘が遠くインドにおもむき、経典を持ち帰って、翻訳した
のもこの地で、現在も寺が残っている。慈恩寺である。
(慈恩寺大雁塔)
そこにある、大雁塔は、経典を保管した場所であるが、京都奈良の
五重塔などのモデルだが、高さ64メートルのこの塔が西安のランド
マールと言っていいだろう。
玄奘が翻訳した、経典の数は、1335巻。今年は、亡くなって、
1335年目。(664年寂)
(真下から見た、大雁塔)
その経典の数と、死後1335年が、ぴったり合った今年は、玄奘
三蔵の1335回忌の法要がなされるとのことである。
「唐三蔵不遠万里去取経」
玄奘三蔵は、他の三蔵と区別するため、通称「唐三蔵」と呼ばれて
いる。天竺までの遠路を、万里とあらわし、万里を遠いと思わず、
経典を取りに行ったという意味で、中国では、玄奘三蔵の功績を
あらわす時、よく言われる言い方だ。
もし、三蔵法師達が、お経を運んでくれなかったら、翻訳してくれ
なかったら、漢訳一切経七千余巻は、私達、日本人の目に触れる
ことはなかったかと思えば、中国の先達には、どれだけ感謝しても
し過ぎることはないと思うのだ。
遠く、かの時代に思い馳せずにおれなかった。
。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。