4月/5月合算業販ランキング@西村艦隊 | オートファッションプランニング (ライティングアート事業部)

4月/5月合算業販ランキング@西村艦隊

時は昭和19年10月25日、第二次世界大戦の末期、次第に敗色が濃くなる日本軍に10倍を超える敵を相手に真っ向勝負を挑んだ艦隊があった。その名は「西村艦隊(にしむらかんたい)」。わずか7隻の日本艦隊の行く手には81隻のアメリカ大艦隊が待ちかまえていた・・・

 

ハイ皆さま、こんにちわライティングアートですニコ今年はコロナの影響で外出も極力自粛ということで、ブログの内容どうしようかな~とうーんまあ本題はランキングコーナーだからこれは発表しますけども、業者様向けなので分からない方からするとまったくなんのこっちゃ分からん・・・わけで。それで7月の祝日と言えば「海の日」がありますがこの「海の日」の意味は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国家日本の繁栄を願う」日、ということだそうでして。僕個人的にですね、昔から軍艦のプラモ(700/1ウォーターライン・シリーズ)をよく作ってまして。戦争はもちろん今後あってはならないことなんですが、戦争の歴史を知ることが亡くなった方への慰霊にもなると思うんです。先ほど「海洋国家日本」という言葉が出てきましたけど、第二次世界大戦中日本には海軍がありまして、その中に「連合艦隊」という海軍の艦艇の組織がありました。長い話ですが少しでも興味がある方はぜひ読んでくださいm(__)m

 

さて、ここでさっそくクイズなのですが

 

●連合艦隊の戦艦の中で戦艦に向けて最後に主砲を発射した戦艦の名前は何でしょうか?

 

これ見てすぐに答えが分かった方は今回僕が記載する内容は知っておられるはずなので、ああ、あれねと思っておいてください。日本の戦艦で一番有名な世界最大(全長263メートル7万トン)そして最強(46センチ主砲)だったとされる戦艦「大和(やまと)」及び同型艦戦艦「武蔵(むさし)」は実戦で戦艦に対して主砲を発射することは沈没までなんと一度もありませんでした。ちなみに日本の戦艦で最後に主砲を発射したのは戦艦「伊勢(いせ)」で、昭和20年7月24日の呉軍港空襲の際にアメリカ軍航空機に向けて撃った36センチ主砲、だそうです。

 

昭和に入ってから日本はいろいろあって主にアメリカ、イギリス(連合国側)と昭和16年から昭和20年まで戦争になりました。戦争というのはどちらか一方の国が「悪」なのではなく、どちらの国もお互いの「正義」を主張してゆずらない為に起こるのです。これから書く内容は日本側からは悲劇として認識されている戦いですが、アメリカを批判する内容ではありませんのでご理解ください。あくまでも太平洋戦争におけるひとつの歴史の話です。最初は日本が優勢だったものの圧倒的物量を誇るアメリカの前に次第に劣勢になり、ミッドウェー及びマリアナ沖の海戦にて大敗、昭和19年日本が占領していたフィリピン奪還に向けてアメリカ軍が進撃を開始。フィリピンを奪還されるとインドネシア等南方占領地との補給路を断たれる日本はフィリピンを「絶対国防圏」と定め捷号作戦(しょうごうさくせん)を発令、昭和19年10月18日にアメリカ軍がフィリピン・レイテ島に上陸したことを受けて捷一号作戦(しょういちごうさくせん)を発令しました。この作戦(一言で言えばアメリカ軍のレイテ島上陸阻止)のため海軍は連合艦隊のほぼすべての艦艇を投入、人類史上最大の海戦「レイテ沖海戦」が昭和19年10月22日から10月26日にかけて起こりました。日本艦隊は4つの艦隊(栗田艦隊・小沢機動部隊・西村艦隊・志摩艦隊)に分かれていたのですが、今回取り上げるのはその中でもっとも悲劇的な末路をたどる第二艦隊第一遊撃部隊第三部隊、通称「西村艦隊」です。

 

↑艦隊司令官 西村祥治中将

↑西村艦隊 旗艦(きかん)※艦隊司令部が乗る船 

戦艦『山城(やましろ)』  全長225メートル 43580トン(満載) 36センチ主砲6基12門  扶桑型戦艦の2番艦

↑戦艦『扶桑(ふそう)』  「山城」と同型戦艦ですが「く」の字になったアンバランスな艦橋が現在プラモ界では大人気で、特に海外では戦艦大和よりも売れているそうです。なんでこんな形になったかはウィキペディアを見てくださいm(__)m

↑手前が戦艦「山城」、奥が戦艦「扶桑」 (一番奥は戦艦「榛名(はるな)」)

この2隻の艦橋は日本戦艦12隻の中で最も高く海面からの高さは50メートルに達した。

↑重巡洋艦『最上(もがみ)』(※『最上』の重巡洋艦改装後の写真はピンボケの1枚しか見つかっていないので写真は昭和10年軽巡洋艦時代)

↑駆逐艦『朝雲(あさぐも)』

↑駆逐艦『山雲(やまぐも)』

↑駆逐艦『満潮(みちしお)』

↑駆逐艦『時雨(しぐれ)』

↑記載内容はこちらの本とネット記事などを参考にしています。間違っている箇所はあるかもしれませんがご容赦くださいm(__)m

 

昭和19年10月20日にダグラス・マッカーサー陸軍大将指揮のアメリカ地上部隊がレイテ島に上陸したことを受けて、日本はこの上陸部隊および輸送船団などをせん滅しなければフィリピンを維持できない状況でした。すでにアメリカ軍は上陸していましたので日本側には作戦を入念に立てる時間はありません。その作戦とは空母4隻を含む小沢機動部隊(おざわきどうぶたい)17隻を【おとり】にして、フィリピン方面のアメリカ軍最大の部隊であるハルゼー機動部隊をフィリピン北方に引き付けておいて、そのすきにブルネイから出撃する日本の本隊である戦艦「大和」以下39隻の栗田艦隊(くりたかんたい)によって防御がからっぽになっているレイテ湾に突入し、艦砲射撃によってマッカーサー上陸部隊を撃滅する、というものでした。しかし、ここで問題が生じます。艦艇が集結したブルネイに本土から手配されているはずの燃料がなく、栗田提督が念のためシンガポールより独自に手配した給油艦が1日遅れで到着したため日程の余裕がなくなったのです。戦艦「山城」と戦艦「扶桑」は21ノット(時速38km程度)しか出ないため25ノット以上の他の戦艦にはついて行けません。そこで作戦会議の結果、急遽本隊(栗田艦隊)とは別のルートから進撃する支隊(西村艦隊)が編成されることになりました。結果的に西村艦隊は戦艦「山城」(旗艦)、戦艦「扶桑」、重巡洋艦「最上(もがみ)」、駆逐艦「満潮(みちしお)」、駆逐艦「山雲(やまぐも)」、駆逐艦「朝雲(あさぐも)」、駆逐艦「時雨(しぐれ)」の7隻になったのですが、内わけは低速の年老いた戦艦、使い勝手のよく分からない航空巡洋艦、所属からあぶれた居場所のない駆逐艦という「寄せ集め艦隊」でした。栗田艦隊、西村艦隊は別々のルートより進撃し10月25日(X日)夜明け前にレイテ湾に南北より同時突入するハズだったのです。そう・・・同時突入するハズでした・・・

 

昭和19年10月22日(X-3日)15:30、西村艦隊は午前中に出撃した栗田艦隊から7時間遅れてボルネオ島ブルネイより出撃します。西村艦隊が通るスル海を経由してスリガオ海峡にいたるルートはレイテ湾までの距離が1500kmと短いかわりに航空機に発見されやすい危険なルートでした。本来は艦隊上空を護衛する航空機部隊をつけるのですが、この頃日本はすでに航空機が欠乏していたため上空を護衛する戦闘機はありませんでした。

昭和19年10月24日(X-2日)、スル海を航行中の西村艦隊はハルゼー機動部隊に発見されます。午前9時ごろハルゼー機動部隊空母艦載機27機の空襲を受け、戦艦「山城」は至近弾による亀裂を右舷バルジに生じ右側に5度傾斜しますがこれは左舷への注水により水平を回復しています。また戦艦「扶桑」は艦尾付近への命中弾を受け誘爆を回避するため後部弾火薬庫に注水、この命中弾により右舷に2度傾斜した状態になりましたが、修理ができなかったため傾斜したままで進撃することになりました。この日はシブヤン海を進んでいた栗田艦隊にハルゼー機動部隊の攻撃が集中(数百機の空母艦載機の攻撃を受け戦艦「武蔵」が沈没)していたため、午前中の空襲後西村艦隊が攻撃されることはありませんでした。しかし、猛攻撃を受けた栗田艦隊が一時反転したために、順調に進撃していた西村艦隊との間に時間差が生じ、すでにレイテ湾同時突入が不可能になっていたのです。この結果、西村艦隊は10月25日(X日)夜明け前に単独でのレイテ湾突入を選択することになるのですが、日本艦隊接近を察知していたオルデンドルフ少将指揮のアメリカ第7艦隊がレイテ湾につながるスリガオ海峡出口で西村艦隊を待ちかまえていました。その戦力は、戦艦6隻、重巡洋艦4隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦28隻、魚雷艇39隻という非常に大きなものでした。

↑アメリカ第7艦隊指揮官   

 ジェシー・B・オルデンドルフ少将

↑アメリカ第7艦隊 戦艦『カリフォルニア』

↑アメリカ第7艦隊 戦艦『ウエストバージニア』

↑アメリカ第7艦隊 戦艦『テネシー』

↑アメリカ第7艦隊 戦艦『ペンシルベニア』

↑アメリカ第7艦隊 戦艦『ミシシッピ』

↑アメリカ第7艦隊 戦艦『メリーランド』

↑スル海でハルゼー機動部隊の空襲を受け爆弾回避のため一斉回頭中の戦艦「扶桑」(下)と重巡洋艦「最上」(上)

↑スル海でハルゼー機動部隊の空襲を受け対空戦闘中の戦艦「山城」

 

ここからは時系列で説明しますので「艦隊これくしょん」の山城・扶桑イメージソング「生まれた意味、生きる理由」を聞きながら読んでいただくと臨場感があってよいと思います。

 

 

昭和19年10月24日深夜、西村艦隊は予定通りスリガオ海峡南口に達した。

しかし、そこに栗田艦隊の艦影はなかった。たった7隻の西村艦隊の行く手にはアメリカ第7艦隊81隻が待ちかまえていた。西村艦隊7隻のすべてをかけた戦いが、そして世界の歴史上最後となる「戦艦対戦艦」の決戦が今、始まる・・・

10月24日午後10時52分~10月25日午前2時16分ごろ

スリガオ海峡へ突入と同時に多数の魚雷艇より攻撃を受ける。西村司令官の指示により各艦魚雷艇に砲撃。魚雷艇1隻が沈没し10隻に損害を与えた。午前2時以降魚雷艇からの攻撃はなかったが、これは海峡両翼より南下しているアメリカ駆逐艦群に攻撃を引き継ぐためであった。

 

午前2時53分

駆逐艦「時雨」が右舷前方にアメリカ駆逐艦を発見。

 

午前3時00分ごろ

アメリカ駆逐艦群が27本の魚雷を発射。

 

午前3時09分

西村艦隊がアメリカ駆逐艦群に向けて一斉に砲撃を開始。

戦艦「山城」、戦艦「扶桑」が前方の駆逐艦に向けて探照灯を照射。

 

午前3時10分

駆逐艦「メルヴィン」の放った魚雷3本が戦艦「扶桑」の右舷中央部に命中。戦艦「扶桑」は航行不能になり、やがて弾薬庫に引火して大爆発を起こし、船体は前後2つに折れて炎上しながら漂流。西村中将は最後まで「扶桑」が被雷し艦隊から脱落したことを把握していなかったとみられる。

 

午前3時13分

駆逐艦「時雨」が今度は左舷前方に敵艦影を発見。

 

午前3時14分

駆逐艦「山雲」が魚雷の雷跡を発見。ただちに西村司令官は艦隊に右90度緊急回頭を命令。アメリカ駆逐艦群は魚雷発射後は砲撃せず煙幕を展開して撤退した。西村艦隊は緊急回頭後2分間東方向に進行していた。

 

午前3時18分

進路を0時方向に戻し北上を再開。

 

午前3時20分

西村司令官が艦隊に左45度緊急回頭を命令。しかし時すでに遅く、命令の直後に駆逐艦「満潮」、駆逐艦「山雲」、駆逐艦「朝雲」、戦艦「山城(1本目左舷後部)」が相次いで被雷、これにより駆逐艦「満潮」が航行不能、駆逐艦「山雲」が沈没、駆逐艦「朝雲」が艦首を切断され単艦で退避。一連の水雷戦闘の結果、西村艦隊で無傷の艦は重巡洋艦「最上」と駆逐艦「時雨」だけとなった。

 

午前3時22分

栗田司令長官に「敵艦隊発見」の電報を送る。

 

午前3時30分~40分ごろ

戦艦「山城」左舷中部に2本目の魚雷が命中。西村司令官から

「各艦は我をかえりみず前進し敵を攻撃すべし」

の命令が出される。西村艦隊残存の戦艦「山城」、重巡洋艦「最上」、駆逐艦「時雨」の3隻はレイテ湾突入を目指しその後も懸命の北上を続けた。

 

午前3時45分

重巡洋艦「最上」が前方の発砲閃光に向けて4本の酸素魚雷を発射。

酸素魚雷回避のため一時的にアメリカ戦艦3隻が移動。

 

午前3時50分ごろ

西村艦隊3隻がアメリカ戦艦・巡洋艦部隊のT字砲撃射程圏内に入る。

 

午前3時51分

アメリカ巡洋艦部隊8隻が主に戦艦「山城」に向けて一斉砲撃を開始。

距離約13,5km~15km

 

午前3時53分

アメリカ戦艦部隊6隻が主に戦艦「山城」に向けて一斉砲撃を開始。

距離約20km

↑戦艦「山城」を砲撃中のアメリカ戦艦部隊(とされる写真)

 

午前3時57分

重巡洋艦「最上」の3番主砲に直撃弾を受け、艦中央部に大火災が発生。「最上」は煙幕を展開しながら南下退却を開始。

 

午前3時58分

アメリカ駆逐艦「ハッチンズ」の放った魚雷が航行不能になっていた駆逐艦「満潮」に命中し「満潮」が沈没。

 

午前4時00分

戦艦「山城」と重巡洋艦「最上」が炎上しているのを目撃した駆逐艦「時雨」は艦隊が全滅したものと判断し、独断反転して南西へと退避を開始。この時、命中弾を受け舵が故障したが応急操舵にて戦場から離脱した。

 

午前4時2分

重巡洋艦「最上」の艦橋に砲弾が命中。これにより「最上」の艦長以下主要幹部が全滅。

 

戦艦「山城」から戦艦「大和」の栗田司令長官へ最後のメッセージが発信される。

 

「我レイテ湾に向けて突撃、玉砕す」

 

戦艦「山城」には285発の戦艦主砲弾と5000発以上の小砲弾が雨のように降り注ぎ、大破炎上、火だるまになりながらも発射可能な1番・2番主砲で応戦、沈没の瞬間まで36センチ主砲を撃ち続けた。

 

午前4時11分

戦艦「山城」の右舷機関室付近にとどめの魚雷2本(合計4本)が命中。完全に機関停止になり急速に右舷に傾斜。

 

午前4時17分

戦艦「山城」に総員退去の命令が出される。

 

午前4時19分

戦艦「山城」沈没。

西村司令官は艦長篠田勝清少将とともに沈みゆく「山城」に残った。

「山城」の生存者は乗組員約1350名中わずか10名だった。

 

午前4時20分

炎上しながら折れて漂流していた戦艦「扶桑」の艦首側が沈没。

 

大破炎上しながらも低速で退避していた重巡洋艦「最上」と遅れてスリガオ海峡に突入して来た後続の志摩艦隊旗艦、重巡洋艦「那智(なち)」が激突。「最上」の損傷は軽かったが「那智」は艦首が破損、浸水し20ノット以上は出せなくなる。

 

午前4時25分

スリガオ海峡突入の準備をしていた後続の志摩艦隊7隻だったが、敵状況不明を理由に先行していた駆逐艦隊を収容しスリガオ海峡からの離脱を開始。

 

(※志摩艦隊は三川軍一中将指揮下の艦隊であり栗田健男中将指揮下の西村艦隊とは指揮系統が異なるため両艦隊のスリガオ海峡同時突入ができなかった、とされる)

 

午前5時20分ごろ

戦艦「扶桑」の艦尾側が沈没。

 

午前5時32分

後続の志摩艦隊より戦艦「大和」の栗田艦隊司令部に西村艦隊全滅の連絡が入る。

 

午前7時21分

艦首を失って単独退避を続けていた駆逐艦「朝雲」が、追撃してきたアメリカ軽巡洋艦「デンバー」「コロンビア」に捕捉され砲雷撃を受けて沈没。

 

昭和19年10月26日午後1時07分

志摩艦隊の駆逐艦「曙(あけぼの)」の護衛をつけてもらいコロン湾へ撤退中の重巡洋艦「最上」だったが、午前中に空襲を受け機関が完全に停止、火災もおさまらないため総員退去の後、「曙」の雷撃により海没処分となった。

 

昭和19年10月27日午後5時00分

駆逐艦「時雨」が1隻だけ奇跡的にブルネイに帰還、西村艦隊唯一の生き残りとなった。

 

はい、ということで「スリガオ海峡海戦」は終結します。冒頭のクイズの答えは戦艦「山城」が正解です。この戦いだけでも4000人の尊い命が犠牲になりました。今日の日本で我々が平和に過ごせる陰には戦争で亡くなった方がたくさんいるのです。それを心にとめて毎日自分のできることをやっていきましょう!!

↑スリガオ海峡海戦をうまくまとめられたMAD編集動画です。

↑こちらの西村艦隊の解説もとても分かりやすいです。

 

さて、西村艦隊が全滅した後も「レイテ沖海戦」は続きます。小沢機動部隊は多大なる犠牲を出しながらもハルゼー機動部隊を北方に引き付ける【おとり】の役目を果たし、後は栗田艦隊がレイテ湾に突入するのみという状況だったのですが、今もって真実は謎のままとされている『栗田艦隊反転』によって日本艦隊はレイテ湾に突入することなく戦いは幕を閉じました。この後、栗田中将は戦後にいたってもなお何故最終局面で『反転』したかを追及されることになります。これは栗田艦隊がレイテ湾に突入していれば日本はこの戦いに勝っていただろう、という歴史のたられば論なのですが、近年の研究によりますと仮に栗田艦隊がレイテ湾に突入していても勝てなかった、とする説の方が有力です。10月25日の時点で戦艦「大和」は健在でしたが、ブルネイ出撃時に32隻あった艦艇は23隻に減っています。レイテ湾で戦闘が予想されるのは西村艦隊を全滅に追い込んだアメリカ第7艦隊です。魚雷艇を数に入れなかったとしても42隻という戦力でしかも空襲でダメージを受けている栗田艦隊に対してアメリカ第7艦隊はほとんどダメージを受けていません。戦艦「大和」の46センチ主砲の威力そして「人の手では沈められない船」という完璧な防御力は発揮されたかもしれませんが、それでもやはり栗田艦隊はアメリカ第7艦隊に勝てなかったと個人的には思いますので、栗田艦隊が『反転』したことにより助かった命がたくさんあった、と考えればこの『反転』は正解だったのかもしれません。

 

さあ、それでは締めくくりとしてランキングコーナー参りたいと思います!!

 

●2020年4・5月度合算ライティングアート月間業販ランキング!!

 

1位 ファーストさん                    (奈良)   374馬力

 

2位 ミスタータイヤマンM-Techさん(和歌山) 231馬力

 

3位 タイヤガーデン和歌山さん      (和歌山)  149馬力

 

●2020年業販総合ランキング(6月末時点)

 

1位 ファーストさん            (奈良)   649馬力

 

2位 タイヤガーデン和歌山さん    (和歌山)  626馬力

 

3位 ミスタータイヤマンマスダさん  (和歌山)  375馬力

 

4位 ミスタータイヤマンM-Techさん (和歌山)  231馬力

 

5位 西川自動車整備工場さん     (奈良)   146馬力