例えば、同じ「海」を見て、その色を同じく「青」だと言ったとして、

Aという人間とBという人間の目が見ている「青」が

本当に同じものかどうかは分からない。

また、同じ色を認識していたとしても、ABでその色を説明した時、

同じ言葉を選ぶとは限らない。

「認識」も、選ぶ「言葉」も人により異なり、時代により日々変化するものだからだ。

「言葉」は伝達の大きな手段となり得るが、同時に誤差を生む危険性も孕んでいる。

 

それ故に、宇野多美恵氏が「どう言えば、カタカムナが違わず伝わるか」と、

常に探りながら相似象学会誌に寄稿し、

その表現にどれほど苦労していたかという記述にもうなづける。

 

「言葉」なくして伝達は不可能だ。

しかし、「言葉」を介する以上、個々の認識に「ズレ」が起こることは避けられない。

 

「言葉」による「ズレ」の存在を理解した上で、皆が納得できる、

本質を得るための手段が必要だ。

一体、何をもってすればそんなことが可能なのか?

実はもう、その手段はすでに誰の手中にもある。

 
 

 

「数(カズ)」、である。

 

つづく。