こんにちは。 「ワタシ・ハ・アナタ」 yukieです。
今日もお立ち寄り下さり、ありがとうございます。
「いいね!」や「コメント」、読者登録も、本当にありがとうございます。
このブログは、ワタシyukieが、2015年9月から「毎日を楽しく生きる」を目標に、感じたり、思ったり、実際にやってみたりしたことを綴っています。(ブログの開始は2015年11月です)
本来、ブログというのは外へと「発信」するモノですが、こちらではワタシyukieが、ワタシ自身に向かって書いている感じになるかと思います。
(その日のテーマや文章が、頭で考えるのではなく、ワタシの中のどこからか出てくるように思えるからです。)
「引き寄せ」の実践やブログを始めたばかりなのに、時に「作家」や「スペシャリスト」みたいな断定的な言い方になるのは、自分でもどうかと思いますが、「ワタシに言い聞かせている」感じです(笑)
最近になってようやく持つことができた「夢」の実現に向かって、日々、実験中です。
今持っているもので、本当にこれからの人生を自分で創造していくことができるのか?その歩みを、日々、綴ってみたいと思っています(*´∀`*)
さあ。
今日も、今この瞬間を楽しんで生きましょう!
いくよー、ワタシ!(*´∀`*)
今日もお立ち寄り下さり、ありがとうございます。
「いいね!」や「コメント」、読者登録も、本当にありがとうございます。
このブログは、ワタシyukieが、2015年9月から「毎日を楽しく生きる」を目標に、感じたり、思ったり、実際にやってみたりしたことを綴っています。(ブログの開始は2015年11月です)本来、ブログというのは外へと「発信」するモノですが、こちらではワタシyukieが、ワタシ自身に向かって書いている感じになるかと思います。
(その日のテーマや文章が、頭で考えるのではなく、ワタシの中のどこからか出てくるように思えるからです。)
「引き寄せ」の実践やブログを始めたばかりなのに、時に「作家」や「スペシャリスト」みたいな断定的な言い方になるのは、自分でもどうかと思いますが、「ワタシに言い聞かせている」感じです(笑)
最近になってようやく持つことができた「夢」の実現に向かって、日々、実験中です。
参考にするのは、本屋さんで出会った本と、ブログと、出会う人々と、自分の感情です。(本当は、「引き寄せ」や「自己啓発」の講座を受講したいんですが、お財布とタイミングがなかなかGOサインを出してくれないので、ここは自己流にカスタマイズ(笑))
今持っているもので、本当にこれからの人生を自分で創造していくことができるのか?その歩みを、日々、綴ってみたいと思っています(*´∀`*)さあ。
今日も、今この瞬間を楽しんで生きましょう!
いくよー、ワタシ!(*´∀`*)
村上春樹氏訳の絵本、「大きな木」。
三週間ほど前にテレビ番組でも取り上げられていたので、ご存じの方も多いと思います。
ずっと気になっていたので、読んでみました。
あらすじを書こうかと思いましたが、というか、一度書いたのですが、物語がとてもコンパクトで(中身はとてつもなく大きいですが)、内容を紹介してしまうくらいになってしまったので、ここではやめておきます(^_^;)
以下は、ワタシの感想です。
これから読む予定のある方は、今日の記事はスキップしてくださいね(*´∀`*)
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「私は夢を見る」
読み終わった時に、浮かんだ言葉はひとつ。
「母」。
読み終わった時に、こぼれた思いはたくさん。
「寂しい」。
「哀しい」。
「やるせない」。
「ごめんなさい」。
惜しみない、母のような深い愛情。
当たり前のように、受け取るだけ受け取りながら、ヒトはそれに気づきもしない。
多くの人が、少年の身勝手さを非難し、大きな木に憐憫の情を抱くだろう。
それは、人間として、ごく自然な感情であると思う。
「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね?」
けれども。
作者が(正確には訳者が)求める答え(同意)を、私は持たない。
本当にそうだろうか?
本当に、大きな木は幸せでなかったろうか?
私は、この大きな木が不幸であったとは思わない。
また、幸せであったとも言わない。
なぜなら、それを決めるのは、ほかでもないこの大きな木である、と思うからだ。
そして、木には、幸せであった時も、寂しくあった時も、不幸だと思った時もあったと思うのだ。
木が、幸せだと決めた時、木は幸せだったことだろう。
木が、不幸だと決めたなら、木は不幸だったはずだ。
周りがどう思おうと、木が決めたとおりに、木はあった。
私はそう、思うのだ。
いつの世も、傍らにある幸せに気づかず、忘れていくヒトというものの哀れさと愚かさ。
ただ、そこにある、それだけで深い愛情を伝えてくれる自然の大きさ。
この二つが、再び思い合う時は来るだろうか?
今の私には、ただ、やるせなさが勝る。
しかし、私はまた、こんな夢を見るのだ。
かつての少年が、その木のもとで、永遠の眠りにつくとき。
木の幸せを、夢に見るかもしれない。
遠い昔の幸せが、その胸に呼び起こされるかもしれない。
少年は腐ちて、切り株の根元で土に還るだろう。
そして、その土を寝床に、切り株の間から、新しい緑が芽を吹くだろう。
芽は若木になり、長い年月を経て、また大きな木に成長する。
木陰を作り、りんごの実を実らせ、優しい遊び場になる。
そこへ、また少年がやってくるだろう。
そして、木とともに、喜びの歌を謳うだろう。
何度でも。
何度でも。

