ちわす!まいこです🐤
出来事を捉えるときに、事実と真実と情報があるって話を思い出したので書きます。
例えばここで、ネコチャンがテーブルの上のコップを倒して、水がこぼれたとします。
「事実」は「ネコチャンがコップを倒して水がこぼれた」です。
んで、「真実」ですが、これが視点の数だけあるという話。
ネコ視点ならば「テーブルの上のコップが邪魔だったから倒しといてやったぜ」かもしれないし、あるいは「そんな気分だったから始末してやった」かもしれない。
ネコチャンによっては「うっかり倒しちゃってごめんね」かもしれないし、「???そんなことあったっけ?覚えてないにゃー。それよりこの辺濡れてて気分悪いのでなんとかしてください」かもしれない。
一方、人間視点では「あっ!悪いネコちゃんだ!」かもしれないし、「ニンゲンがそんなところにコップ置いといたのが悪いです、ごめんなさい」かもしれないし、「ネコチャンは何しても可愛いな〜」かもしれない。
この中のどの視点の意見でも、それぞれその人(ネコ)にとってはそれが出来事に対する捉え方の一つの回答である、という意味で、それぞれに「真実」なんです。
「事実」は共通。
一つの出来事を客観的に述べただけに対し、「真実」は当事者の捉え方やフォーカスするところにより、いく通りでも解釈があり得る、って話です。
つまり、起きた出来事(事実)に対しての意味づけ(真実)はいくらでも好きにできるし、主観により脚色もし放題であるってことですね。
没頭したストーリーから抜けることについていえば、起きた出来事を意味づけをせずに「事実」として捉えるのはいいかもしれません。
気づきのための出来事として捉えてももちろんいいんだけども、あんまりいつもいつもそうやって「私が今転んで膝小僧を擦りむいたことは何かのカルマが…」とか、「ここで日替わりランチのラス1にありつけたのはきっと日頃の徳が…」とかやってもいいんだけど、どうなんでしょうね笑。
膝小僧を擦りむいたらとりあえずケアするのが先だし、ランチは本当はラス1じゃないのかもしれません笑。
エゴちゃんはいつでもセカセカするのが好きで、思考を忙しく働かせてあっちとこっちの情報を繋ごうとするけれど、特に意味はないんです。
ただただ、転んで膝を擦りむいただけだし、日替わりランチにありつけたってだけです笑。
ちなみに、情報。
これは色々ですね。
誰かの主観の入った真実のこともあるだろうし、客観的な事実のこともあるだろうし、全体を捉えない部分的な枝葉のこともあるでしょう。
まぁ、実は「真実はいつもひとつ!」じゃなくて、出来事を誰かから伝え聞く場合はそれが主観が入ったその人にとっての真実なのか、ただの出来事としての事実なのかに注目して聞くと、当事者のストーリーに巻き込まれなくていいかもね、って話です。
そういう意味でも、外側の出来事や誰かの身に起きた出来事にいちいち反応して介入してる場合じゃない、ってことでもあるでしょうね。
だからどうだって事ではないですが、ちょっと思い出したので書いてみました。
残念だったね!コナ○ンくん!!!笑
真実は当事者の数だけあったよ!!!!!!wwwwwwww
(だから人が死んじゃうんだよ…というとこまでがセット)