それぞれ色んな考え方、捉え方があると思います。
私の実家は、浄土真宗西本願寺派です。
生まれは高野山の麓の橋本市でもあります。
私自身、神社も寺もどちらも好きで、どちらの考え方も好きですが、ライトくんの見解を今日は書きます。
なるほどなと思う所も、違うんじゃない?という所もあります。
賛否両論あると思いますが、あくまでもライトの見解なので、そういう考えもあるな位にとどめていただけるとありがたいです。



「川崎大師さん行ってたけど、お寺のお参りってどうなんだろう?
ライトどう思う?」

『弘法大師さんはライトも好きだよ。
厄除けは弘法大師さん強いし、考え方も好きだよ。
だけど、ライトはお寺ってお人形遊びみたいって思うの。』

「お人形遊びとは!?
どの辺がお人形遊び!?」

『仏像さんがね、お人形。
人の形を仏師が掘ってるから。』

「なるほど…。
ライトにはそう見えると。」

『もちろん考え方とか、間違ったものではないよ。
さっき言ったけど、弘法大師さんライト好きだし。
でも、形あるものがないと安心しないのは人間だからだよね?
元々の宗教・神様は形のないもの。
神道も仏教も根本は同じなんだよ。
ただ、この人なら信じられる!みたいなの人間はあるから。
教え方が違えば受け取り方も違う。
だから沢山の宗教が出来て、枝分かれしていったんだよ。』

「ん?宗教になってるけど、どんな宗教においても結果神様は同じって事?」

『そうだよー。
1人の神様を目指してお祈りする。
だから、信じる宗教は違ったっていいんだよ。
最終的には同じ神様を祈ってるから。
だけどね、キラキラ神様(アマテラス様)!弘法大師!キリスト様!アッラー!ってそこで止まっちゃダメなんだよ。
もっと上に神様いるんだもん。
みんな神様はもっと上にいるよって教えを書いてたりするのに、目先のご利益だけになってるんだよ。
わかる?』

「なんとなく。
でも、仏像が人形遊びはまだよくわかんない…。」

『おバカなぽんちゃんにライト教えたげるよ。
仏像作って、そこにお経唱えて神様降ろすって、本当に確実に出来るの?
出来なくない?出来る人もいるかもしれない。
でも、絶対はないよね。
神はそこにいる!と信じて祈るから力になってる。
祈るのが感謝の気持ちだけならいいよ?
だけど、人の欲がいっぱい入る事もあるわけで。
人の欲の塊だったりしたら、それは神と呼べるのか…って。』

「なるほどねー。」

『高野山で弘法大師さんは今も修行してる。
弘法大師さんは仏像が力になるんじゃないってわかってたんだよ。
人の欲で溢れる事も。
だから今も世の中のために命を賭して祈ってるんだよ。
人は感謝の心で祈らなきゃいけないって事を自分自身で体現してるんだよ。
だから、ライトは弘法大師さんは神様じゃなくても神様に近い人って思ってるよ。』

「ということは、神道における考えは一番古い考えで、根本的な事なんだね。」

『やっとわかった?』