人が自分の夢の理由を語るのを見ていて、寒気がするときがある。なんというか、言いようのない不安に襲われるのだ。彼らの真っ直ぐな視線、真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな意思。そういうものに遭遇すると、俺は思わず恐怖してしまう。なぜだ。俺の中にそういう真っ直ぐなものを見いだせないからか。その強さが眩しいからか。なぜ。
少年が一本道を歩いてゆく。雨上がりの砂利道、道の両脇には花の咲く土手、空は昼と夕暮れの中間地点、風は後ろから心地よく。彼は立ち止まらない。迷わない。だって一本道だ。いったい迷う必要がどこにあるというのか。視線はどこまでも真っ直ぐに伸びる。踏み出す足に満ち満ちた自信。だが鼻歌混じりに歩む少年の、その道が俺には心配でならない。彼の道はどこに向かうのか。それは本当に進路だろうか。あれは退路ではないのか。栄光の道でなく、母の胎内へ帰る道。彼の目指す夢とは、野望とは似ているようで異なる道。しかしそれらはよく似ている。ほとんど同じと言っていい。しかし彼にはそれが認識できていない。道に敷かれたいくつもの砂利、それらに刻まれたものだけが彼の真実で、その下の地層に染み込んだ本当の道の理由には気づけていない。いや、もしかして見ようとしていないのか。
地層――そう、まさに地層だろう。彼の道には、きっといくつもの理由が積み重なっている。少年は何重にもなってしまったそれの、一番上、いくつもの砂利で取り繕った部分だけを信じきっている。
救いたいと彼は言った。けれどそれは、彼が救われたいということでもあったのだろう。誰かを幸福にするという彼の誓いには、そうすることで誰かに認められたいという願望が、そして自分を認めてあげたいという欲求が染み込んでいる。彼の謳う愛の裏には、確かに肉欲が潜んでいた。彼の叫ぶ言葉の影に、必ず別の何かが蠢いている。
たったひとつの純粋な動機で起こる行動などあるのだろうか。ひとつの行動には、複数の願望や、欲求や、祈りや、意思、そういうものが込められているように思えてならない。複数のそれらが積み重なって、汚いとか自分で許せないと思う部分はその一番下に押しやってしまって、表面に誰かに誇るための立派で綺麗な砂利を敷き詰めて人は安心してしまうのだ。
それは悪ではない。だって誰でもやることだ。誰でもしたいと思うことだ。自分の中の理由に、自分を認められなくなる部分なんて見つけ出したくはない。だから砂利を敷く。それは悪などではない。
必要なのは立ち止まることだ。道に敷き詰めた砂利の理由だけではなくて、その下に別の理由が潜んでいるいるかもしれないと疑ってみることだ。自分の用意した美しい理由の下には目を覆いたくなるほどの身勝手な欲があるかもしれないし、自分のためと思ってした行為は無意識に誰かのためを思ってしたことかもしれない。そう考えてみることだ。
理由はひとつのことからは構成されない。表と裏がある、なんて単純なことではなく、いくつもの要素が複雑に絡み合っている。真っ直ぐ迷いなく夢の理由を見るのではなく、そこに絡みつく複数の理由にも目を向けていくことが自分を知るために必要なのではないかと思う。