ラノベのブログ

ラノベのブログ

東北芸術工科大学・芸術学部・文芸学科・ライトノベル班のメンバーが記すそれぞれのブログです。

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 人が自分の夢の理由を語るのを見ていて、寒気がするときがある。なんというか、言いようのない不安に襲われるのだ。彼らの真っ直ぐな視線、真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな意思。そういうものに遭遇すると、俺は思わず恐怖してしまう。なぜだ。俺の中にそういう真っ直ぐなものを見いだせないからか。その強さが眩しいからか。なぜ。


 少年が一本道を歩いてゆく。雨上がりの砂利道、道の両脇には花の咲く土手、空は昼と夕暮れの中間地点、風は後ろから心地よく。彼は立ち止まらない。迷わない。だって一本道だ。いったい迷う必要がどこにあるというのか。視線はどこまでも真っ直ぐに伸びる。踏み出す足に満ち満ちた自信。だが鼻歌混じりに歩む少年の、その道が俺には心配でならない。彼の道はどこに向かうのか。それは本当に進路だろうか。あれは退路ではないのか。栄光の道でなく、母の胎内へ帰る道。彼の目指す夢とは、野望とは似ているようで異なる道。しかしそれらはよく似ている。ほとんど同じと言っていい。しかし彼にはそれが認識できていない。道に敷かれたいくつもの砂利、それらに刻まれたものだけが彼の真実で、その下の地層に染み込んだ本当の道の理由には気づけていない。いや、もしかして見ようとしていないのか。


 地層――そう、まさに地層だろう。彼の道には、きっといくつもの理由が積み重なっている。少年は何重にもなってしまったそれの、一番上、いくつもの砂利で取り繕った部分だけを信じきっている。


 救いたいと彼は言った。けれどそれは、彼が救われたいということでもあったのだろう。誰かを幸福にするという彼の誓いには、そうすることで誰かに認められたいという願望が、そして自分を認めてあげたいという欲求が染み込んでいる。彼の謳う愛の裏には、確かに肉欲が潜んでいた。彼の叫ぶ言葉の影に、必ず別の何かが蠢いている。


 たったひとつの純粋な動機で起こる行動などあるのだろうか。ひとつの行動には、複数の願望や、欲求や、祈りや、意思、そういうものが込められているように思えてならない。複数のそれらが積み重なって、汚いとか自分で許せないと思う部分はその一番下に押しやってしまって、表面に誰かに誇るための立派で綺麗な砂利を敷き詰めて人は安心してしまうのだ。


 それは悪ではない。だって誰でもやることだ。誰でもしたいと思うことだ。自分の中の理由に、自分を認められなくなる部分なんて見つけ出したくはない。だから砂利を敷く。それは悪などではない。


 必要なのは立ち止まることだ。道に敷き詰めた砂利の理由だけではなくて、その下に別の理由が潜んでいるいるかもしれないと疑ってみることだ。自分の用意した美しい理由の下には目を覆いたくなるほどの身勝手な欲があるかもしれないし、自分のためと思ってした行為は無意識に誰かのためを思ってしたことかもしれない。そう考えてみることだ。


 理由はひとつのことからは構成されない。表と裏がある、なんて単純なことではなく、いくつもの要素が複雑に絡み合っている。真っ直ぐ迷いなく夢の理由を見るのではなく、そこに絡みつく複数の理由にも目を向けていくことが自分を知るために必要なのではないかと思う。

孤独から目を背けるの






13日は金曜日ですね。


不吉な日…というのは英語圏および独・仏などでの迷信らしいです。

13という数字が不吉とされるのは聞いたことがあるのですが、金曜日がそうとされるのは……無くもないですけどピンとこないですね。


最近本当にカレンダーを確認する機会がないのでたまたま気付いてんですけど、こういうのって意味もないのに騒ぎたくなる魅力がありますよね。本当に意味がない。つまり、そんなノリで書き出した今回のブログにも全くもって内容がないんですよね。ふむ、ネタがほしいな。日々平々凡々と大人しく生きているつもりですがえてしてその日常が普通で不変であることなんてありえないわけです。いや何、“普通”の確かな基準がないですし、不変でないことはすでに分かっていることですしね。だからこそ、些細な事柄もネタにならないなんてわけもないはずなんですがそれはそれ。しょうがないじゃないですか、些細すぎて面白みに欠けるんですもん。面白くなければダメなんてこともないけれど、どうせなら面白い方がいいのは真理でしょう? 言い訳がましく分量嵩増しのために連ねられている文章なんかより、ずっとずっと読む気になれますよね。


ということで、文章は無意味に長くできるんだなぁという確認でした。一言でまとめると、「書くことがない」ですね。

体裁だけは取り繕うとしてみましたが、やはり内容がなければ意味がないようで。こういう文章はなるべく簡潔にかつ分かりやすくまとめることが大事ですよね。逆に口頭では長くしゃべれる方が便利なのでしょうが(主に物事をうやむやにする意味で)、世の中なかなかうまくいかないものですね。

気付いたら誰もいなかった。






棘をまとった人がいくら腕を広げて笑顔をつくっても、その抱擁に応えてくれる人はない。ハリネズミのジレンマ、なんて言葉をふと思い出す。

真綿であれば、鋭い針が何本刺さっても痛みを感じず、むしろその針をやわらかく包み込んでしまう。そのくせ「真綿で首を締めるよう」という慣用句のとおり、見た目に反して丈夫である。


そういう意味では、私もれっきとした「死んだことのない人」であると思う。

「死ぬ」というのは、ふつう身体の機能が停止して命が去ることを指すが、精神的な意味合いも含んでいる。死ぬこと、生きたまま死ぬということ。それは決してネガティブなものではないと思う。

ああ、死ななければ。最近よく考える。

死ななければならない。自分をころさなければならない。






ユーディトの剣は切れ味が悪い。