カリフォルニア州でカップルが歩いていて、
缶が落ちているのを拾い上げたところ、
そこに、たくさんの金貨を見つけたという、ニュースがありました。
10年以上も、頻繁に通っている道なのに、それまでは、
なぜ見つからなかったのでしょうか。
それにしても、なぜ、そこに金貨が落ちているのか。
名前は書いていませんので、誰がそこに埋めたのか。
それは、わかりません。
しかし、間違いなく、原因はあります。
そこに落とした人がなければ、金貨を拾うという結果は起きません。
お釈迦様は、すべての運命は、自業自得、
私の行為がつくりだしたものだと、説かれました。
運命は神が与えたものだ、という人もあります。
destiny(運命)という言葉は、
神の定めしもの、という非常に強い意味の言葉なのだそうです。
その定めに背いて生きることは、神への冒涜で、
愛する子供を亡くした悲しみも、すべて神からの試練というのですが、
はたして納得できるのでしょうか。
どんな科学も医学も、原因の徹底追求によって成り立っている学問です。
原因の追求なくしては、どんな学問も成立し得ません。
百歩譲って、私達の運命は神が与えたのだといたしましょう。
では、神の存在を在らしめたものは何なのでしょうか。
これに、キリスト教は答えを持ちません。
私達が在るのは、神が造ったからだというのですが、
では、その神が在るのはなぜかと問うても答えを持たない。
私達の運命は、神が与えたものではなく、
先祖のたたりや、狐や狸の霊がついてのことでもない。
一切は、私達の行為が生み出したものなのだよと、
教えられたのがお釈迦様でした。
http://atsushi-sasaki.com/book/applly_a.html