最近、自分に欠けているもの。

潔さ。


白黒はっきり、というのが嫌いです。
何事も表裏一体、白があれば黒もあり、黒があるから白がある。
物事を極端に良い・悪いという見極めで考えるのが苦手です。


もちろん、良いものは良い。悪しきものは悪しきもの。
その道理はわかります。
シンプルに考えたら、圧倒的に、良いものが私は大好きです。

ただ、良いものを好きで居続けるためには、
それ以外のものの存在を無視することはできません。


例えば、

誰の中にも喜怒哀楽があります。

喜楽は気楽。
誰もがその感情は欲しいと思うし、基本的にめんどくさくない感情です。
怒哀は、その反対でめんどくさーい。
経験している人はわかると思うけれど、ものすごくエネルギーがいる感情です。
若いうちは勢いやノリや未経験な部分でがつんと入っていけるけれど、
経験値が深まるうちに、できるだけこのあたりは真っ向からぶつかるよりも、別の抜け道や壁の乗り越え方を模索して、さり気なく回避するようになる部分だと思います。

一度しっかり経験していれば、何度も経験しなくても「充分」心には刻みこまれる。
怒りや哀しみの感情を超える課程には、様々な苦痛や心労も伴うし、そこを乗り越えているからこそ他者の痛みや苦しみにも配慮できるようになる。


そのあたりを避けて避けて、喜びや楽しさだけを追求する人もいます。
容量がいい人。
私は、個人的にはあまりそのあたりに共感できません。
できても、表面的になってしまう。
そりゃそうだろ。
表面的にしかキャパがないものに、共鳴できる部分は限られている。
シンプルに考えればそれが当たり前だし、それ以上のことを自分に強いる必要はない。

避けている人には、決してわからない領域がある。
その部分に関して、避けている人と議論したり意見交換することは時間の無駄である。
そのことも、経験値で折り込み済。
時間をかけてかけてかけてかけた上での結論なので、そう簡単には揺るがない。

要するに、避けている人はその部分に関して弱いのだ。
自分では経験したくないのだ。
それはそれで、わかる。
それくらい、エネルギーが必要だし、リスクも伴うし、痛みに耐えるパワーもいる。


でも、
残念ながら、分かちあうには至らない。
なぜなら、キャパがない部分に関しては、分かち合うことは不可能。
表面的に取り込むことは要領が良く器用な人は可能かもしれないけれど、それは本質には至らない。
それは分かち合いとは質が違う。



私は、本質を見極めて繋がることを潜在的に求める傾向がある。


そういう意味では、潔い、と言えそうだ。