人生は、勝ち負けじゃない。
でも、多くの人が、自分より下と見下せる相手を見つけて、自分の都合よく扱おうとするのを垣間見る。
元々はその気がなくても、一度始まるとゲームはなだれのように人を巻き込んでいき、雪だるま式に膨れ上がっていく。意識的にも、無意識にも。
それがとても悲しい。
その瞬間の、質やレベルというところで、人には多少の優劣や個人差があることはわかる。
人は自分以外の誰かと比べないと、自分というものをうまく認識できない生き物なので、比較することに長けている、ということも知っている。
でも、そのときのその違いって一体、どれだけの価値があることなんだろう?
ある人にとってはとても大きな意義かもしれない。
けれど、勝手に比べる対象にして自分より下だと判断したものを、明らかに自分の都合のために扱う姿勢には、気がついた時点で私は気持が引いてしまう。される側でも然り。
自覚なく、そうすることが当り前の対応となると、その人とは話すらままならない。
強気で押されれば、対抗する気持などない側はひとたまりもなく押し切られてしまう。
そして、一旦、その力関係が出来上がってしまえば、ひっくり返すことは容易ではない。
だいたい、必要もない対抗心などを持ち合わせない友好的なタイプには、ひっくり返すことの意味を見出せない。
自分が優位に立ったところで、相手をねじふせ自分の思い通りに扱う気持など、ないのだ。
ということは、優位にたったとしても、その瞬間、ねじ伏せたい願望の人に対して油断すれば、瞬く間に立場は奪われ、また、その人の都合に振り回されることになるのだから、・・・やはり、そういう関係性には、最初から交わらないにかぎる。距離を置くのだ。
つまり、ある程度の境界線を設け、距離を置き、客観的に眺めるに留まる。
自分は自分、人は人。
この姿勢を冷たい、と評価する人にかぎって、感情的に人に押し入り必要以上にかき乱し、混乱したところで自分が手綱をにぎることを平気でしたりするから、怖い。
先日、村上春樹さんがエルサレムでの授賞式でコメントした、システムと卵を比喩にした人間の作り出した社会と個人の現実的な問題点。
春樹さんの徹底した姿勢は、個人に対してのゆるぎない許容。
どちらか片方につく、ということはとても勇気がいることだと思う。
一貫した姿勢は、作品にも表れている。
春樹さんが描く主人公、ストーリーはいつも一貫している。
温度感や質感に多少の違いはあれど、描きたいテーマというのがあり、常にそのことに真摯に向き合い言葉を選び紡いでいる。
世界各国で賞賛されている偉大なる作家が、日本人であることに、ささやかながら誇りを感じる。
励まされます。
私は、基本的に個人に対して心をひらく。
でも、システムに対しても理解を示す。
それは、大きな矛盾なのだけれど、個の立場と、システム自体は秤にかけて価値を推し量れるものではない。
春樹さんの足元には遠く及ばないかもしれないけれど、多勢に無勢の力関係には人のエゴを感じる。
多勢の中の個というのは、たいがい、世の中が移り変わればそれに倣い移り変わる。
けれど、一貫した個というのは、頑なかもしれないけれど、何かそこにこだわる想いがあるわけで、
その想いが通い合ったときの愛おしさは、何ものにも変え難い。
・・・でも、その反面、システムを無視することはできない。
よく言えば「中庸」の思想、
聞こえが悪く表現すると「中途半端」。
要するに、はっきりした立場からすると「お前はどちらなんだ」と言いたくなるわかりにくいタイプ。
でも、これはシステムの中には欠かせない。
というか、システムの中の個というのは、多かれ少なかれ、その要素を備えている。
むしろ、備えていなければ、システムはまわらない。
個を生かすためには、システムという機能は必要なのだから。
集団心理にも「中」を取る姿勢は上手に生かせる。
よく言えば臨機応変、聞こえが悪くいうと八方美人。
私の中に一貫性があるとすれば、「個」として対応するためには相手も「個」であること、
それ以外は「システム」として存在していることが暗黙の了解である認識が互いに必要、ということ。
一対一で話ができない人とは、基本的には社交辞令の要素は必要になる。
そこに多勢で無勢を抑圧する行為となると、エゴの圧力を感じてしまう。
経済自体は社会を上手に動かすための手段だけれど、「お金」という指標のもと、人のエゴに突き動かされ立ち行かなくなってしまうほどの行為は、何時の時代も大きな問題となって社会(システム)全体に影響を与える。
戦争、略奪、金融恐慌など。
そんなことを目の当たりにしてしまうと、平和というのは、どうしたら訪れるのだろう?などと考え始めることとなる。
・・・もっと、人が成熟すれば、自然とそうなるのだろうか。
自分の力でどうなるものではないかもしれないので、せめて、自分が平穏であるための努力は欠かさないようにと日々、精進。
システム社会に組み込まれて生活していると、一人に戻る時間は本当に必要。
それがなくなったら、個が死ぬのと一緒だ。
でも、多くの人が、自分より下と見下せる相手を見つけて、自分の都合よく扱おうとするのを垣間見る。
元々はその気がなくても、一度始まるとゲームはなだれのように人を巻き込んでいき、雪だるま式に膨れ上がっていく。意識的にも、無意識にも。
それがとても悲しい。
その瞬間の、質やレベルというところで、人には多少の優劣や個人差があることはわかる。
人は自分以外の誰かと比べないと、自分というものをうまく認識できない生き物なので、比較することに長けている、ということも知っている。
でも、そのときのその違いって一体、どれだけの価値があることなんだろう?
ある人にとってはとても大きな意義かもしれない。
けれど、勝手に比べる対象にして自分より下だと判断したものを、明らかに自分の都合のために扱う姿勢には、気がついた時点で私は気持が引いてしまう。される側でも然り。
自覚なく、そうすることが当り前の対応となると、その人とは話すらままならない。
強気で押されれば、対抗する気持などない側はひとたまりもなく押し切られてしまう。
そして、一旦、その力関係が出来上がってしまえば、ひっくり返すことは容易ではない。
だいたい、必要もない対抗心などを持ち合わせない友好的なタイプには、ひっくり返すことの意味を見出せない。
自分が優位に立ったところで、相手をねじふせ自分の思い通りに扱う気持など、ないのだ。
ということは、優位にたったとしても、その瞬間、ねじ伏せたい願望の人に対して油断すれば、瞬く間に立場は奪われ、また、その人の都合に振り回されることになるのだから、・・・やはり、そういう関係性には、最初から交わらないにかぎる。距離を置くのだ。
つまり、ある程度の境界線を設け、距離を置き、客観的に眺めるに留まる。
自分は自分、人は人。
この姿勢を冷たい、と評価する人にかぎって、感情的に人に押し入り必要以上にかき乱し、混乱したところで自分が手綱をにぎることを平気でしたりするから、怖い。
先日、村上春樹さんがエルサレムでの授賞式でコメントした、システムと卵を比喩にした人間の作り出した社会と個人の現実的な問題点。
春樹さんの徹底した姿勢は、個人に対してのゆるぎない許容。
どちらか片方につく、ということはとても勇気がいることだと思う。
一貫した姿勢は、作品にも表れている。
春樹さんが描く主人公、ストーリーはいつも一貫している。
温度感や質感に多少の違いはあれど、描きたいテーマというのがあり、常にそのことに真摯に向き合い言葉を選び紡いでいる。
世界各国で賞賛されている偉大なる作家が、日本人であることに、ささやかながら誇りを感じる。
励まされます。
私は、基本的に個人に対して心をひらく。
でも、システムに対しても理解を示す。
それは、大きな矛盾なのだけれど、個の立場と、システム自体は秤にかけて価値を推し量れるものではない。
春樹さんの足元には遠く及ばないかもしれないけれど、多勢に無勢の力関係には人のエゴを感じる。
多勢の中の個というのは、たいがい、世の中が移り変わればそれに倣い移り変わる。
けれど、一貫した個というのは、頑なかもしれないけれど、何かそこにこだわる想いがあるわけで、
その想いが通い合ったときの愛おしさは、何ものにも変え難い。
・・・でも、その反面、システムを無視することはできない。
よく言えば「中庸」の思想、
聞こえが悪く表現すると「中途半端」。
要するに、はっきりした立場からすると「お前はどちらなんだ」と言いたくなるわかりにくいタイプ。
でも、これはシステムの中には欠かせない。
というか、システムの中の個というのは、多かれ少なかれ、その要素を備えている。
むしろ、備えていなければ、システムはまわらない。
個を生かすためには、システムという機能は必要なのだから。
集団心理にも「中」を取る姿勢は上手に生かせる。
よく言えば臨機応変、聞こえが悪くいうと八方美人。
私の中に一貫性があるとすれば、「個」として対応するためには相手も「個」であること、
それ以外は「システム」として存在していることが暗黙の了解である認識が互いに必要、ということ。
一対一で話ができない人とは、基本的には社交辞令の要素は必要になる。
そこに多勢で無勢を抑圧する行為となると、エゴの圧力を感じてしまう。
経済自体は社会を上手に動かすための手段だけれど、「お金」という指標のもと、人のエゴに突き動かされ立ち行かなくなってしまうほどの行為は、何時の時代も大きな問題となって社会(システム)全体に影響を与える。
戦争、略奪、金融恐慌など。
そんなことを目の当たりにしてしまうと、平和というのは、どうしたら訪れるのだろう?などと考え始めることとなる。
・・・もっと、人が成熟すれば、自然とそうなるのだろうか。
自分の力でどうなるものではないかもしれないので、せめて、自分が平穏であるための努力は欠かさないようにと日々、精進。
システム社会に組み込まれて生活していると、一人に戻る時間は本当に必要。
それがなくなったら、個が死ぬのと一緒だ。