昨日見た、NHKの探検ロマン・世界遺産
は、アフリカ北部のリビアにある、
砂漠のオアシス、ガダーミスは印象深かった。
国土の9割が砂漠という過酷な環境下でつくられた共同住宅街である。
ナツメヤシに囲まれ隠れるように存在する、漆喰に固められた真っ白な建造物。
夏場は気温が50℃にも上がり、ギブリと呼ばれる乾燥した熱砂が吹くと15-20℃も気温の変化もある気候に耐えるため、住宅街は窓がなく、中の迷路のような廊下(道)を歩けばひんやりするほど涼しく作られている。
昔の住居に多いけれど、どうして迷路のような入り組んだ道をつくるのだろう?とても興味深い。
そして、住居内はというと、とても可愛らしい装飾で壁一面が飾られていて、温かみや色みがあり、とても居心地の良い空間だったことを想像する。
このガダーミス、現在住んでいる人はいないそうだ。
原因不明の井戸水の枯渇によって住居での生活が困難になり、現首格カザーフィ大佐によってつくられた新市街に、現在は移り住んでいる。
インタビューの中で、生まれてから住めなくなるまでずっとそこで暮らしていたおじいちゃんは、今でも元の生活に戻りたいと昔を懐かしむように笑っていた。
大きく広々とした家になり、電化製品に囲まれテレビやパソコンなど技術の先端にも触れた生活にもかかわらず、毎日、旧市街まで足を運び、昔と変わらず自分の畑の世話をし、ナツメヤシを育てている。
先祖代々に伝えられている、「ナツメヤシが育つ地は滅びない」といういわれがあるそうだ。
命を繋いでいって欲しい、との願いが心の底から伝わってくる。
そうかと思えば、新市街で育った子供たちは、何でも揃っている新市街の生活でなければ考えられない、とハッキリ言う。それはそうかもしれない。旧市街での生活を知らないのだから、比べようもないし、新しい生活に不自由を感じる理由がない。
そのおじいちゃんと子供の間で、新旧どちらの生活も知っている親は、その二つを繋ぐべく伝統を受け継ぎ話し合うきっかけのためにも、週一回の旧市街での礼拝には家族で足を運ぶことを続けている。
今回、インタビューに応じてくれたこの家族は、それだけ意識の差があっても世代間の会話が存在しているけれど、まったく旧市街のことを忘れようとしている人々も多くいるのが現実で、ナツメヤシは以前の1/3ほどしか生息しておらず、旧住宅街の中でもまったく訪れようとしていない棟については、崩壊寸前の危機であるという。
建築学を学ぶ若い学生たちが、もし、崩壊してしまっても、きちんと修復できるように、今、すべての建物の採寸にはげんでいるところだそうだ。
リビアに限らず、どこの世界でも同じことが起っている。
近代化により様々な利便性や機能の充実など、生活を便利にする一方で、本来の豊かさを失うかのような変化を当り前のように受け入れる流れは、明らかに先進国がしかけていること。
生活を便利にすること自体は、よいことかもしれない。
でも、この世界遺産でのおじいちゃんのインタビューを見るだけでも、変える必要って本来はあったのかな?と思わせるほど幸せに満ちた生活を、以前は送っていたに違いない。
ものはなくとも、人々との交流は自然にたわいなく心地よくなされていて、足りないものなど一切なかった。
井戸の水が枯れるまでは。
リビアは石油産出国で、土地のほとんどが砂漠で、でも、水は豊か(でも硬水で飲み水には適さない)というイメージしがたい風土のようですが、それだけに限られた生活の場での共同生活を営む人間関係には、あまりあるモノにはない幸福感が満ちていたのでしょう。
建築物って、近代の計算され洗練された無駄のない作りのものも見事ですが、迷路みたいによくわかんないけれどなんだかワクワクするし手作り感のある愛らしいものも、心惹かれます。
いやー、だからこそ、世界遺産。
世界遺産の奥深さには心惹かれます。
砂漠のオアシス、ガダーミスは印象深かった。
国土の9割が砂漠という過酷な環境下でつくられた共同住宅街である。
ナツメヤシに囲まれ隠れるように存在する、漆喰に固められた真っ白な建造物。
夏場は気温が50℃にも上がり、ギブリと呼ばれる乾燥した熱砂が吹くと15-20℃も気温の変化もある気候に耐えるため、住宅街は窓がなく、中の迷路のような廊下(道)を歩けばひんやりするほど涼しく作られている。
昔の住居に多いけれど、どうして迷路のような入り組んだ道をつくるのだろう?とても興味深い。
そして、住居内はというと、とても可愛らしい装飾で壁一面が飾られていて、温かみや色みがあり、とても居心地の良い空間だったことを想像する。
このガダーミス、現在住んでいる人はいないそうだ。
原因不明の井戸水の枯渇によって住居での生活が困難になり、現首格カザーフィ大佐によってつくられた新市街に、現在は移り住んでいる。
インタビューの中で、生まれてから住めなくなるまでずっとそこで暮らしていたおじいちゃんは、今でも元の生活に戻りたいと昔を懐かしむように笑っていた。
大きく広々とした家になり、電化製品に囲まれテレビやパソコンなど技術の先端にも触れた生活にもかかわらず、毎日、旧市街まで足を運び、昔と変わらず自分の畑の世話をし、ナツメヤシを育てている。
先祖代々に伝えられている、「ナツメヤシが育つ地は滅びない」といういわれがあるそうだ。
命を繋いでいって欲しい、との願いが心の底から伝わってくる。
そうかと思えば、新市街で育った子供たちは、何でも揃っている新市街の生活でなければ考えられない、とハッキリ言う。それはそうかもしれない。旧市街での生活を知らないのだから、比べようもないし、新しい生活に不自由を感じる理由がない。
そのおじいちゃんと子供の間で、新旧どちらの生活も知っている親は、その二つを繋ぐべく伝統を受け継ぎ話し合うきっかけのためにも、週一回の旧市街での礼拝には家族で足を運ぶことを続けている。
今回、インタビューに応じてくれたこの家族は、それだけ意識の差があっても世代間の会話が存在しているけれど、まったく旧市街のことを忘れようとしている人々も多くいるのが現実で、ナツメヤシは以前の1/3ほどしか生息しておらず、旧住宅街の中でもまったく訪れようとしていない棟については、崩壊寸前の危機であるという。
建築学を学ぶ若い学生たちが、もし、崩壊してしまっても、きちんと修復できるように、今、すべての建物の採寸にはげんでいるところだそうだ。
リビアに限らず、どこの世界でも同じことが起っている。
近代化により様々な利便性や機能の充実など、生活を便利にする一方で、本来の豊かさを失うかのような変化を当り前のように受け入れる流れは、明らかに先進国がしかけていること。
生活を便利にすること自体は、よいことかもしれない。
でも、この世界遺産でのおじいちゃんのインタビューを見るだけでも、変える必要って本来はあったのかな?と思わせるほど幸せに満ちた生活を、以前は送っていたに違いない。
ものはなくとも、人々との交流は自然にたわいなく心地よくなされていて、足りないものなど一切なかった。
井戸の水が枯れるまでは。
リビアは石油産出国で、土地のほとんどが砂漠で、でも、水は豊か(でも硬水で飲み水には適さない)というイメージしがたい風土のようですが、それだけに限られた生活の場での共同生活を営む人間関係には、あまりあるモノにはない幸福感が満ちていたのでしょう。
建築物って、近代の計算され洗練された無駄のない作りのものも見事ですが、迷路みたいによくわかんないけれどなんだかワクワクするし手作り感のある愛らしいものも、心惹かれます。
いやー、だからこそ、世界遺産。
世界遺産の奥深さには心惹かれます。