昨日、ターシャ・テューダーさん の特別番組をNHKでやっていた。
私は、20代の頃、何気なく本屋でターシャさんの本に出会って以来、彼女の密かなファン。
彼女の静かで謙虚な佇まいや、生き方、価値観、人間性といったものにとても心惹かれていました。

現実的な私は、彼女の時代の流れに捉われずそこにあり続ける世界は、私の生きる世界とは違うもの、と本の中の世界として、静かに心に温めつつ鍵をかけていました。
でも、同時代を生きる中で、あの世界は本当にバーモンド州に息づき、周りに生きる人々へも影響を与えながら愛されて存在していたのだなー、とテレビを見ながら思わず涙してしまいました。

あんなに心優しい、温かい生活は私は知らない。
戦争で負けて以来、アメリカに追いつけ追い越せの時代の流れのなかで、高度成長期、バブル、情報化社会・・・と経済優先に生きる世の海の中で、必死に溺れないよう仕事やら生き方やら考え方やらにもまれながら、なんとか今日も生きている感じ。
知らないから、自分の生活は「これでいいの?」と思いつつ、どんどん進化という名のもとにコンビニエント化にならされつつ、生活が便利に簡単になってゆくなかで失われているものをテキトウに見過ごしてきたような気がしています。

世界の問題の源、私は「無知」だと思う。それ+「いそぐこと」。
これは、自分への戒めというか、経験をもとに感じていることです。
知らないでやってしまったことが、後にこんなことにもなるんだーと反省することって誰でもあると思うんです。
だからこそ、謙虚さって必要なわけで。美徳というより、マナーとしての謙虚さって大事だと思う。
そして、時を急ぐから、無知の上塗りで次から次へとその場しのぎの解決策でフタをする。
世界の歴史を紐解いてみても、人間の歴史って「やってはいけなかったこと」の連続でもあるのではないかな?と思う面ってあります。そのことを見ずに心地よい面だけ見ていることも「無知」のひとつ。
だからこそ、「教育」って必要だと思うし(これは適切な意味で)、学ぶことは私にとっては生きる上で絶対にかかせないものでもあります。
がむしゃらに、というわけではないのですが、ささやかな日常の中でも「あ、これは知らない。なんだろう?なんでだろう?」という意識は持ち続けていますし、知らないでやってしまったことに対しての理解は失わないようにしたいとも思います。
そんなに難しい気持でいるわけでもなく、遊び感覚で知らない世界へ足を運ぶ、意識を向けるということがないと、人生ってつまらないものになりそうだし。
車のブレーキも「あそび」の部分がなければ、ガクンっと無理ある止まりかたしますしね。

なんか、そういう余裕というか、遊び心というか、愉しむゆとりみたいなものは絶対に失いたくないなぁ、と思うのです。


ターシャさんの庭にも遊びに行きたいな。
映像で見た、ターシャさんのいつまでも若々しく愛らしい姿に、久々の感動でした。
自分で思い込んでいたよりも、ターシャさんには共感することが多く、案外、身近な存在なのかも?とも思いました。
あれだけの生活や価値観を信念もって貫けるところは、、、違うかもしれないけれど(--;)
思うこと、感じること、心惹かれることは似ている気がしました。

ターシャさん、安らかにお眠りください。
そして、遊びにきたくなったら、いつでも戻ってきてくださいね。
多くの人の心に、ターシャさんは生き続けていますから。