昨日はNHKの特集で裁判員制度について、やっていた。
なんとなく人ごとのように思っていた制度だけど、
何時自分の身に参加資格が回ってくるかわからないという
今までにない無作為なルールなだけに、見てみた。
というか、ニュースつけていたら、その流れで見ただけともいいますが。

死刑か、そうでないかという極めて難しくレベルの高い判決に、一般人がいきなり関わるというところにまず無理を感じる。
しかも、話し合いは3日間というタイトなスケジュール。
今回、選ばれた人のほとんどが「3日間で人を死に至らしめるかもしれない判断を下す」という行為に、やや気持が引き気味になっていました。
とはいえ、現実的に課せられたことは「3日間で、加害者と被害者両者の言い分を加味しつつ、その罪を裁く」こと。
逃げる事もできないし、とりあえず話を棚に上げて息抜きする時間も最小限。
本物?の裁判官らがリードしつつ、選ばれし一般人は「裁判」というものに巻き込まれていくのでした。

自分だったらどんな判断を下すだろう?
擬似裁判の様子を見つつ、それに参加している自分と大差ない一般の人の様子を眺めつつ、・・・相当距離を持ちつつも、いろいろと考えさせられます。

希望的願望として、「今までニュースでしか触れることのなかった人を殺める事件というものがこれからなくなるといい。そのためには、人が人を殺めるまでに至る経緯や意識に対して向き合う認識で理解に努め、その上で、そこに至る前に防げる場所をつくること」が大事ではないか?と思考しました。

昔と違い、今は無差別な事件が多くなったと言われますが、人の根本的な部分ってそんなに変わるものではないと思います。
無差別になるということは、原因も本人の意識外のことが多いのではないと、私は推測します。
「本来、自分が抱えなくてもよかった問題を、たまたま引き受けてしまった。」
「自分はそこまでしなくても、、、と思うことがあっても、今は世の中全体が繋がっている故に自分は関係ないではすまされない。」
そういうことって、日常生活の中でも往々にしてありますが、まぁいっかで流せることや赦していたことも積み重なると「いいかげんにしてほしい」という気持にもなりえます。
それが、殺意に至るまで・・・というのは、はっきりいって考えたくない世界ですから、その立場に至ってしまった人
の状態は想像に絶します。つらいとか苦しいとかの気持なんて、とうに過ぎてしまったのではないだろうか。

でも、いちいちハッキリその場で黒白つけていたら、その場の空気が乱れる事もあるし。
殺伐としてしまいそう、、、本当に難しいですね。


・・・しかし、司法の世界で働き続けてきた人たちのプロフェッショナルな態度には感心してしまいました。
裁判官も最初は、今回初参加の一般人に近い感覚で悩み、感情的に揺さぶられ、判決することの難しさと向き合っていたのでしょうが、場数と共にブレることがなく、状況を理解し、判断する能力が磨かれていったのだと思います。初めて参加した一般人の心情を組みながらも話の流れを必要に応じて修正し、方向付けしていく姿も客観的に眺めてしまいました。

たぶん、いきなり人の生死に関わる判断って素人が参加する話ではないと思います。
でも、そうせざるをえない状況まで、世の中がすすんでしまったというのが今回の裁判員制度ではないでしょうか。
いろんな意味で、世の中の転換期であることを感じました。
たとえ選ばれなくとも、距離を置きながらも問題意識を持ち、状況をよくするために自分が何ができるか?どうしたらよいか?と考え、日常におとしこみ行動していくことで、世の中が気持ちよく生きやすく変わっていくのならいいですね。