言葉だと、思うように伝わらないものだなぁ・・・と感じることが続いている。
これは、自分と相手の器の違いによるのかな?というのが、最近の実感です。
器って、人によって持つ大きさとか形とか重さとか質とかが違う。
それぞれに優劣があるというわけではなく、今、その時点で持っている器が違うというだけだと、私は思います。
以前、悩みが深かった(若かった)頃、カウンセリングなるものを受けたことがある。
私は、心の奥深い部分を他人と共有するという経験を求めていたのですが、当時、行く先々で感じたことは、
1.カウンセリングとは、「先生」と「患者」の立場で話がすすむもの
2.先生は「理論」が先に立つが、こちらは「感情」が主体である
3.こちらの欲求と、向こうの欲求にズレがあると、逆ストレスとなる(加えて経済的ストレスもプラスされる)
と、どうも、満足の行く結果には至らなかった。(上記のような分析結果は得られた)
あと、カウンセリングの途中で、立場が入れ違ってしまうこともあった。こちらが相手の話をうんうん、と聞くわけである。いきなり私自身を全面否定してくる悪代官のような人もいた。途中まで盛り上げといて、最後にがくーんっと人の心を裏切る人もいた。
自分の理想を徹底的に叩き込みたかったんだと思われるが、こちらの要望はムシされたとなると、素直に従う気にはなれない。
イメージでいくと、亭主関白(死語?)みたいな感じ。
そちらの要望もわかるんだけど、ただ従うのってムリがあるのです。。。そんなつぶやきは許されない。
そして、時間が来れば「今日はここまで。次回はいつにしましょうか」となる。
多分、精神科がまだ「何やら怖いもの」とみなされていた時代の、カウンセリングだったのだと思います。
なので、最後に静かな感動の元、両者納得のフィナーレはおあずけとなっている。(向こうはもう忘れていると思うが)
そうこうしているうちに、自分が思い描く「静かな感動」なるものは、あくまでも私のイメージで、相手が思い描くものと違うのではないか?という予想の結論(仮説)が心の中に根付きつつあります。
つまり、ないものねだり。
自分の中のイメージは、自分で創り上げ納得するしかない、という結論である。
自分の欲求は自分でかなえる。それが、一番最短で、余計な軋轢がなく、お互いがハッピー。
パワーゲームからの解放なのである。
その仮定を実証すべく、セラピーの勉強を始めるつもりで、ある協会に問合せをしてみたら、
「過去に逆ストレスを感じたことのある方は、一度、先生主催の体験レッスンを受けた方がよいですよ」と、アドバイスされました。
要は、カウンセリングを途中で中断しちゃった人は、きっと、授業を受けていても途中で嫌になるのではないか?と、心配していただいたのですよね?ありがとうございます。
私としては、途中で中途半端なので、最後までやりきりたい!という希望があります。
自分で自分の世界を形にして、切り拓くしか、もうないんだろうなってことはうすうす感じているのです。あとは、どういう方法で、ことを成し遂げるか?それだけです。
結局、カウンセリングでうまくいかなかった様々なトラウマを、スッキリさせたいのかしら、私。
そして、餅は餅屋。同分野で直接、調整したい。その方が、ストレート。
自分が経験したことのバランスを取りたいです。
否定された分は、認められないと。せめて、自分が認めないと。
「自分で自分を癒すセラピー」ってそういうことだと思いますが、協会のチャッチコピー&趣旨とは違うのかしら。
ちなみに、コーチングって最近、定着しつつあるけれど、あれも、カウンセリングの延長線上だと思う。
結局、上に立って誰かを援助する立場にありたいだけなのではないか?と感じてしまう私は、もう、される立場を卒業するところまで来ているのかもしれませんね!
これは、自分と相手の器の違いによるのかな?というのが、最近の実感です。
器って、人によって持つ大きさとか形とか重さとか質とかが違う。
それぞれに優劣があるというわけではなく、今、その時点で持っている器が違うというだけだと、私は思います。
以前、悩みが深かった(若かった)頃、カウンセリングなるものを受けたことがある。
私は、心の奥深い部分を他人と共有するという経験を求めていたのですが、当時、行く先々で感じたことは、
1.カウンセリングとは、「先生」と「患者」の立場で話がすすむもの
2.先生は「理論」が先に立つが、こちらは「感情」が主体である
3.こちらの欲求と、向こうの欲求にズレがあると、逆ストレスとなる(加えて経済的ストレスもプラスされる)
と、どうも、満足の行く結果には至らなかった。(上記のような分析結果は得られた)
あと、カウンセリングの途中で、立場が入れ違ってしまうこともあった。こちらが相手の話をうんうん、と聞くわけである。いきなり私自身を全面否定してくる悪代官のような人もいた。途中まで盛り上げといて、最後にがくーんっと人の心を裏切る人もいた。
自分の理想を徹底的に叩き込みたかったんだと思われるが、こちらの要望はムシされたとなると、素直に従う気にはなれない。
イメージでいくと、亭主関白(死語?)みたいな感じ。
そちらの要望もわかるんだけど、ただ従うのってムリがあるのです。。。そんなつぶやきは許されない。
そして、時間が来れば「今日はここまで。次回はいつにしましょうか」となる。
多分、精神科がまだ「何やら怖いもの」とみなされていた時代の、カウンセリングだったのだと思います。
なので、最後に静かな感動の元、両者納得のフィナーレはおあずけとなっている。(向こうはもう忘れていると思うが)
そうこうしているうちに、自分が思い描く「静かな感動」なるものは、あくまでも私のイメージで、相手が思い描くものと違うのではないか?という予想の結論(仮説)が心の中に根付きつつあります。
つまり、ないものねだり。
自分の中のイメージは、自分で創り上げ納得するしかない、という結論である。
自分の欲求は自分でかなえる。それが、一番最短で、余計な軋轢がなく、お互いがハッピー。
パワーゲームからの解放なのである。
その仮定を実証すべく、セラピーの勉強を始めるつもりで、ある協会に問合せをしてみたら、
「過去に逆ストレスを感じたことのある方は、一度、先生主催の体験レッスンを受けた方がよいですよ」と、アドバイスされました。
要は、カウンセリングを途中で中断しちゃった人は、きっと、授業を受けていても途中で嫌になるのではないか?と、心配していただいたのですよね?ありがとうございます。
私としては、途中で中途半端なので、最後までやりきりたい!という希望があります。
自分で自分の世界を形にして、切り拓くしか、もうないんだろうなってことはうすうす感じているのです。あとは、どういう方法で、ことを成し遂げるか?それだけです。
結局、カウンセリングでうまくいかなかった様々なトラウマを、スッキリさせたいのかしら、私。
そして、餅は餅屋。同分野で直接、調整したい。その方が、ストレート。
自分が経験したことのバランスを取りたいです。
否定された分は、認められないと。せめて、自分が認めないと。
「自分で自分を癒すセラピー」ってそういうことだと思いますが、協会のチャッチコピー&趣旨とは違うのかしら。
ちなみに、コーチングって最近、定着しつつあるけれど、あれも、カウンセリングの延長線上だと思う。
結局、上に立って誰かを援助する立場にありたいだけなのではないか?と感じてしまう私は、もう、される立場を卒業するところまで来ているのかもしれませんね!