21週5日。

朝から教会に行き、一杯300円でみんなでうどんを食べようの会を月に一度やっている日だったとのことで、いただいてきました。で、そのあとは集会の方がイベントの講演をやるというので、そちらに。
明るい間には帰れると思ったから今日こそ玄関を掃除しようと意気込んでいましたが、結局犬と散歩行って早々に寝てしまいました…
幼い頃に触れたものって、結構覚えてるものですよねえ。
宗教系なら、「主の祈り」とか。少林寺拳法を初段を取るまでやっていたので、「道訓」とか。小学生から事務所に入って、たまにCMにちらっと舞台もちょこっと、くらいのさほど売れもしない芸能活動のようなものをし、とっくの昔にフェードアウトしていますが、「外郎売り」とか「バナナの叩き売り」とか。
別に普段意識して生きてはいないんですが、言おうとしてみたらすらすらと口をついて言葉が溢れ出し、最後まで言ってしまえたものたちです。三つ子の魂百までとか、門前の小僧習わぬ経を読むに近い気もしますが、当時訳もわからず喋っていた言葉を、今の語彙で聞いてみるとなかなか面白いなあとか。
きらきらさんもいろんな話を聞き、みんなの祈りや讃美歌を聞き、じたばたぴこぴこしていました。
冬の北海道で起きた、二十歳前後の大きな事件について眺めたりしながら、子育てってこう、一歩間違うとそういう加害者を育てあげるリスクだよなあとも思っています。まあそういう意味で言うと、自由意志をもった他人に責任が生じる結婚もリスクだと思いますが。
自分は別に完璧ではないし、きらきらさんにもそういうものは求めていないけど、でもだからと言って取り返しのつかないところに行ってしまわないような環境というか、できる準備はしたいなあとか。いろんな考え方があっていいし、自由に感性を伸ばせばいいと思うけど、自由に行動した結果取り返しのつかないことを起こしてしまう人もいるわけで。自分の生育環境も理想的ではなかったし、率直に言うと荒れていた時期もあったので、そういう意味で言うと取り返しのつかないことをしでかした人と自分の間に、明瞭に住む世界が違うような隔たりはないと思ってはいます。
なんの罪をも犯さずに生きている人はいないというほど、宗教的な原罪論を語る気はないですが、とはいえ獣同等の新生児が成長していくにつれて、多かれ少なかれ他者を傷つけることは当然あると思います。もちろん自らも傷は受けるものでしょうけど。そういうことは自然にあり、っていうかそもそも命ある生き物を毎日、自らかそうでないかはともかく、殺し、切り刻み、料理と称して食卓に乗せて自分の命を繋いでいる時点で、罪とは無縁な人間はいないと思います。食べた肉を吐き出しても、それがそのまま鶏になって歩き出すことはぜったいにないわけで、生きているということは日々そもそも取り返しのつかないことの連続です。何の命も奪わずに生きることはできないし、自分の命を繋ぐためにどれだけの命をいただいているのか理解できるほど成長したときに、それでもなお不必要に他者を傷つけることのない生き方ができるような、別に親がそう望んでいるからではなく、自律し自由に振る舞う中で無理なくそうできるような、そんな道へ誘えたら、いいなあとは思いますけど。
