Life Span.

人が生まれ、そして生きて、死ぬ。

それが人生。

いや、これは、生命体全てに言える事。

その生命体が今、自分(人間)であるという時にだけ、人生というのだろう。

そのことだけで、喜怒哀楽の良し悪しを自他共に評価し、その評価という基準も、個々が生きるというところに始まっている。

どんな環境においても、生きるということを語る時、語り手は語り手の立場、聞き手は聞き手の立場、基準でその生きるを判断する。

そこに良し悪しがあるのか?

良し悪しは、お互いの生きるという基準で判断することで、団体で、生きる際に必要となる判断方法だ。

個々で生きる時は、自分は絶対でなければならないので、基本的に良し悪しは無い。

団体で生きる場合、自分にとってその他が良いのか悪いのか判断し、自分にとって、生きるためにその他を認める、賛同することが良いと判断する。

団体が変わればそのルールと、その良し悪しも変わる。

冒頭で、人生と言ったが、これは、人に限ってのみの事を指す。

しかし、生まれてきて、生きて死んでいくのは、人だけではない。

人は、幾つもある生命体の1つでしか過ぎない。

1つの生命体は、その生命を維持するために働く。

人という生命体は、その中の1つにしか過ぎない。

他の生命体が存続するルールと人の生命体が存続するルールは違っている。

人は、他の生命体のルールでは生きられない。

生きようとする適応能力はあるかもしれない。

ただし、それが適応できるのは今全ての人間が死んでしまってから次の世代の人間が出てくるまでは適応できないだろう。

それが、種の変異のスパンである。

ただ、人は、人の作ったものの中で生きていられるうちは、その変異を体現することは出来ない。

今生きている人は、それを体現することは出来ない。

人は、何のために生きているのか?

貴方は何のためにこの世に、そこに存在するのか?

それは、紛れも無く、種を保管するためであり、人間という種を存続させるために存在する。

伴侶や子供が居ようと居まいとその勤めは果たしている。

必要がなくなった時に、その個々の裁量とは関係なく死が訪れる。

遺伝子には個の終焉の時が刻まれている。

では、今取りざたされている個人とは何か?

現代人が、他の種と生死を分かつ共存をしていくアマゾンのジャングルの中で、何人生きていけるのか?

他の人からの影響を受けないジャングルの中は、無数の種が存在し、正に人としての種、個の生存する世界である。

その世界は、個が生きるという言葉にふさわしい世界。

そんな世界で、個人を追及する人が何人生きていけるのか?

個人を尊重するというのは、同じグループの中で発生するルールに起因するハンドルの遊びのようなものを要求しているだけなのか?

それとも、もっと厳格に、本当の個を追求しているのか?

人は、何時もいかなる時も、自分の生きることに対し、要求を持ち、有利に事を運ぼうとする。

それは、生命体として存在する為である。

奇麗事とか、装飾する建前用語は一切要らない。

生きているか死ぬかだけである。

子供生み育てるのも、自分が長く生きるためであり、それが、人という種を保存する大前提の条件を満たしているということにもなる。

親以外の他がかわいいというのと、親自身が子供をかわいいと思うのは、その認識がまったく違う。

ただし、子供は成長し、親になった時点で、自分の親から離れるのが一般的で、そこから親達は、個へと移行するか、または、家族というグループを形成するかの選択が来る。


Life Span-Zero