永禄3年(1560年)長尾景虎が常陸(茨城)の佐竹義昭に送った書状が現代で残ってます。

この書状の一行が現代における義将謙信のイメージを決定するのに重要な資料となります。

書状のその一行の訓読を活字に直します↓

「依々怙不携弓箭候、只々以筋目何方へも致合力迄候」

もっと分かりやすく訳すと↓

「えこひいきで戦はしない。大義名分があれば何処へでも力を貸す」

全文を理解せず、この一行だけ脚光を浴びてしまって義将謙信の美談になってしまった。

この書状の全文は不良風に例えると↓

「おい佐竹よ そっちはどうよ?」
「この前は関東の有名な奴らと一緒にツルんで走れて嬉しかったよ」
「でもチーム武田がお前の街狙ってるから気を緩めるなよな。気合いれていけよ!」
「こっちはよ、富山の神保と喧嘩になってさ~ちょっと痛めつけてやったら侘びいれてきたよ」
「しょうがね~から許してやったよ」
「福井の朝倉もやる気ねーみたいだし、北陸にはも~敵はいないよ」
「まぁ敵でも筋通せば味方になってやるし何処でも行くぜ」
「かったりぃから何もない方がいいけどよ。」
「んじゃまたな」

↑全文は本当にこんな内容ですw

謙信が関東管領として関東軍総勢10万人以上で小田原城を取り囲み、落とせなかったが、

北条に取られた領土をいくつか取り返した。

この勢いで武田領に進攻すればよかったが取りやめた。

謙信は越後に戻る。

その間、武田が関東を狙ってるかもしれないから気をつけてくださいと警告。

謙信は富山の神保を労せず屈服させた。

神保に限らず大義名分があれば何処でも手を貸すと宣言

越前の朝倉は敵ではないから北陸はこれで安心と一息つく


全文を訳すと大義名分が小さく感じる。

神保を威圧だけで屈服させ御満悦で少し天狗になってしまった感じです。

謙信は大義名分にこだわる理由があります。

武田信玄と戦う前も上洛してまで将軍 足利義輝より御内書もらってきました。

御内書の内容は信濃への軍事行動の許可です。

将軍から信濃出兵許可をもらってやっと武田討伐に乗り出すのです。

また、神社へ正当性を書き記した願文奉納し、この願文は現代に数多く残されてます。
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そこまでして義や正当性を前面に出すのは越後の内情があったからです。

義を称える事により謙信は他国へ進攻出来なくなるという自分で首を絞めてしまいました。

そのおかげで越後衆はいくら働いても知行(土地や給料)が上がらず、正義という精神支柱で動くしかなかったのです。

越後は裏切りや内乱が絶えず戦うことで結束力を高め、国外で駐屯することで需要物資をまかなってました。

越後領内の年貢を消費しないようにしてたのです。

謙信は14歳から49歳で没するまで70回戦をしました。

1年に2回も出兵している計算です。

当時は徒歩で新潟から関東まで遠征するわけですから他国で年を越し迎える方が多かったのです。

越後は雪が降ったら帰還できないのも他国越冬の原因でした。

義で援軍に向かうのではなく越後の台所事情で 戦=他国に食わせてもらう ということです。

まだまだ疑惑の古文書はありますが、謙信ファンが憤怒となるのでこの辺で。
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