「敵に塩を送る」昨今よく聞く言葉です。

由来は、永禄10年(1567年)、武田信玄は甲斐、駿河、相模の三国同盟 盟約に叛き駿河領へ進攻した。

駿河の今川氏真と相模の北条氏康は経済制裁として塩の流通を止めた。

甲斐、信濃は海がなく、塩は流通でまかなっているのが大半です。

当時も今も塩は人間にとってなくてはならないもの。

上流階級の武士や町人は他国の密売行商から高価な塩を買えるが、一般的な民、百姓には買えず死活問題です。

それを見かねた、上杉輝虎(謙信)は

「信玄と争うところは弓箭にある。米、塩ではない」と言い、信濃に塩を送った。という言い伝えです。
(弓箭とは、弓矢、武士、戦)

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一見、感動し、感銘を受けますが、そんな記述ありません。

謙信の人柄を表した美談ですね。

当時、甲斐は駿河、相模より塩の流通がありました。

信濃は越後より塩の流通がありました。

事実に近い解明をすると、駿河、相模の経済制裁で塩止めされたのはあると思います。

甲斐、信濃では塩相場が高騰します。

越後から信濃に流通している塩の値段も上がり越後商人は儲けたことでしょう。

当然、商人からの越後府内の税も自然に上がり、謙信の懐も暖かくなるはずです。

三国同盟とは関係のない越後にとって商売を止める義理も約束もないので、変わることなく流通許可を出していた。

越後側はいつも通り何も変わったことをしていないのに信濃の民は謙信を敬った。

現在でも信濃では「塩の道祭り」がある。

塩の道とは新潟県 糸魚川から 長野県 大町、松本、野尻あたりを示します
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塩留めの感謝として、武田信玄は謙信に福岡一文字の在銘太刀「弘口」を一振送ったと伝わり、

その太刀は現在「塩留の太刀」として重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。

信玄は感謝をこめて太刀送ったのではなく、謙信の機嫌を害わないよう、塩を止めないでくれと言う暗黙の了解を得たのではないかと思う。

上杉謙信は「義の人」と現在では伝わっていますが、次回はどれだけ義だったのかに触れます。

つづく