謙信遺骸、左右に安置された宝物のもう一方、善光寺一光三尊阿弥陀如来像
由来は、長野 善光寺にて白雉5年(654年)以来一度も公開されたことの無い絶対秘仏。
住職ですら拝んだことのない秘仏中の秘仏だそうです。
鎌倉時代に御本尊の身代わりとして善光寺前立本尊(国重要文化財)が造られ、拝されるようになりました。
御開帳時は前立本尊が代わりに拝めるということです。
それが何故、米沢に?ということなのですが、少し長文になりますのでお茶を飲みながら読んでくだされ。
あまり知られていない事ですが、明応4年(1495年)信濃(長野県)川中島を舞台に高梨氏と村上氏が戦火を広げていました。
戦場となったのは善光寺です。善光寺支配権をめぐり両者が争い、善光寺は消失したという。
火を放ったのは高梨氏、しかし善光寺御本尊 一光三尊阿弥陀如来像は高梨氏に本拠地 高井群中野に持ち去られた。
その後、高梨政盛は3年間病床に伏すはめになり、善光寺如来の祟りと恐れた高梨氏はこれを寺に返却した。
「王代記」にはこのような記述が載っているそうです。
その後、弘治元年(1555年)武田晴信と長尾景虎による第2次川中島の合戦後、長尾景虎は越後へ帰国の際、
戦火に巻き込むかもしれない善光寺如来の保護のため越後府内に移し如来堂を造営し安置したと、上越市史には掲載されている。
そして謙信没後、上杉景勝が会津⇒米沢移封と共に善光寺如来も移動される
如来堂とは越後 十念寺 浜善光寺と呼ばれ現在も地元に信仰されている。


そしてこれが現在の十念寺 御本尊 一光三尊阿弥陀如来像です

由来↓

写真を撮ったり関係者に取材をしていくうちに私の周りに異変や怪奇現象が起こり始めています。
頭痛がしたり、何かに呼ばれる声がしたり、遺跡を見つめてる視線が離れず吸い込まれそうになったり
かなり危険な感覚に囚われてる自分がいます
御祓いか厄払いをしていただこうと思っています。
何者かが止めてるのか誘ってるのかその答えは出ませんがまだ続けます。
ここまでは越後側の記述であり、次回は甲斐、武田側の主張に触れたいと思います。
由来は、長野 善光寺にて白雉5年(654年)以来一度も公開されたことの無い絶対秘仏。
住職ですら拝んだことのない秘仏中の秘仏だそうです。
鎌倉時代に御本尊の身代わりとして善光寺前立本尊(国重要文化財)が造られ、拝されるようになりました。
御開帳時は前立本尊が代わりに拝めるということです。
それが何故、米沢に?ということなのですが、少し長文になりますのでお茶を飲みながら読んでくだされ。
あまり知られていない事ですが、明応4年(1495年)信濃(長野県)川中島を舞台に高梨氏と村上氏が戦火を広げていました。
戦場となったのは善光寺です。善光寺支配権をめぐり両者が争い、善光寺は消失したという。
火を放ったのは高梨氏、しかし善光寺御本尊 一光三尊阿弥陀如来像は高梨氏に本拠地 高井群中野に持ち去られた。
その後、高梨政盛は3年間病床に伏すはめになり、善光寺如来の祟りと恐れた高梨氏はこれを寺に返却した。
「王代記」にはこのような記述が載っているそうです。
その後、弘治元年(1555年)武田晴信と長尾景虎による第2次川中島の合戦後、長尾景虎は越後へ帰国の際、
戦火に巻き込むかもしれない善光寺如来の保護のため越後府内に移し如来堂を造営し安置したと、上越市史には掲載されている。
そして謙信没後、上杉景勝が会津⇒米沢移封と共に善光寺如来も移動される
如来堂とは越後 十念寺 浜善光寺と呼ばれ現在も地元に信仰されている。


そしてこれが現在の十念寺 御本尊 一光三尊阿弥陀如来像です

由来↓

写真を撮ったり関係者に取材をしていくうちに私の周りに異変や怪奇現象が起こり始めています。
頭痛がしたり、何かに呼ばれる声がしたり、遺跡を見つめてる視線が離れず吸い込まれそうになったり
かなり危険な感覚に囚われてる自分がいます

御祓いか厄払いをしていただこうと思っています。
何者かが止めてるのか誘ってるのかその答えは出ませんがまだ続けます。
ここまでは越後側の記述であり、次回は甲斐、武田側の主張に触れたいと思います。