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フードインクとありあまるごちそう

最近になってようやく観ました。








フードインク

 と ありあまるごちそう







この2本の映画はそれぞれアメリカとヨーロッパにおける「食」の工業化に疑問を投げかける作品になっています。





私は、「知っている」と「みたことがある」と「体験したことがある」には明確な差があると思います。





私もこうした工業化について「知ってい」たこともありましたが、実際に「みる」と全然違います。





この映画を観て、「食」への意識が変わりましたし、誰かにそれを伝えたいとも思いました。





もちろん、この映画がすべてではありませんし、日本では多少なり状況が違う・・・と信じたいです。





ですが、日本にもマックやケンタッキーなどのファストフード店、そして諸外国産の食品が来ている以上、日本にいるからといって無関係ではありません。





だからこそ、日本では当たり前にある「食」というものに真摯に向き合っていくべきだと思うのです。











<安さの秘密>





「野菜を1つ買うお金でハンバーガーが2個も買えるのよ」



というセリフがフードインクの中に出てきます。





日本でも殆ど同じような状況です。



時期にもよりますが、白菜を一玉買おうとすれば、高い時なんかはマックでハンバーガーが4つ食べられます。



マクドナルドのハンバーガーには、バンズ・ケチャップ・ピクルス・パテが入っています。



たぶん、普通に私たちが過程でハンバーガーを作るとすれば、



バンズ:35円

ケチャップ:0.5円

ピクルス:3円~5円

パテ:40円



くらいかかり、全部で80円くらいになります。



それを100円で売っている。



人件費やその他の経費を考えれば確実に赤字です。





ということは、明らかに原材料費が安いと考えるべきですね。



人件費や経費は、相当に効率化され、合理化が図られていますが、それだけであの安さは実現できません。







<言いたいこと>



私たち日本人は、元々「八百万(やおよろず)の神々」を信じていました。



私は神など信じっちゃいませんが、「八百万の神々」は信じる・・・というより敬いたいし、子供には教えたいです。



それは「八百万の神々」が、人という小さな存在が多くのものから支えられて生きているということを教えてくれたからです。



だからこそ、人々は「食」の恵みに感謝し、必要以上にものを取らなかったのです。







今はどうでしょうか。



本当は今も支えられているはずの「食」や「命」に感謝の念はありますか。



「頂きます」を感謝の言葉として述べている人はどれだけいるでしょうか。







マックやケンタッキーで食べるなとは言いません。



一見美味しく出来ているし、場所として使いたい人にはもってこいです。



しかし、所得との兼ね合いではあるが、日頃から「食」に感謝し、「食品」を疑っている人はそうしたファストフードにあまり行かないのではないでしょうか。







今一度、当たり前の「食」に関心を持って欲しい。



それが、私が訴えたいことのすべてです。


戦いからの卒業

2年半やってきた塾のバイトを卒業しました。


最後の授業、もう生徒は全員第一志望に合格していたので、ある程度好きな授業をやってもいいことになっていました。


そこでやったのは上関原発に関する問題です。


上関原発問題については前の記事 に書きましたが、それを通して学んでほしいことがあったのです。


私の目から見て、上関原発問題は、推進派・反対派・中国電力の三者とも主張する理由に共感できます。


もちろん、私の意見を言えば反対なのですが、どれを支持することに関しても理解は出来るのです。


更に、今の状態に至る歴史があり、地理的状況も関わってくる。




つまり、今まで生徒に教えてきた地理・歴史・公民の能力をフルに使って考えられる問題なのです。


生徒に対して行ったのは、

基本情報を教える

3者に分かれてロールプレイ

解決策を模索するディスカッション

まとめ

という感じです。


ロールプレイやディスカッションと言うとかなり高度なことのように思えますが、レベルの高低はあるものの中学生でもちゃんと考えて話し合えるのです。




生徒から出た意見は幼稚であったり、僕も思いつかなかったものであったり色々なもので、改めて自分自身が生徒からも教えられているというのを実感しました。




この授業を通して、僕が伝えたかったのは2つあります。

「人として」と「生徒として」です。


「人として」は、こうした社会問題に対して「知ろうとすること」と「行動すること」、そして「他人事にしないこと」を伝えました。

様々な社会問題があるなかで、そうした問題に興味関心を持ち、更に自分に出来る範囲で何かの行動をしてほしいという思いからです。


「生徒として」は、今まで学んできた社会はどうして学んできたかを伝えました。

歴史は、どのようにして今の世界が出来たか。
地理は、どのような場所にあるのか。
公民は、今どのような状況にあり、どんな仕組みで動いているのか。

を知るために学び、そしてこうした社会問題に対してもこの3点を使ってアプローチ出来るように学んできたのだと。



最後の授業にふさわしいことを言えたつもりです。

ただ、やっぱりさびしいですね。

入った塾も本当に恵まれていて、先生も尊敬できるような人で、自分自身、成長できたと思います。

あの塾に入って、よかった。

大手じゃないし、すごく小さい塾だけど、環境はとっても良かったと思います。



生徒にも、塾にも、ありがとう。


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祝福の華 / SONY α55 f/5 1/13sec ISO800 35mm



title: 尾崎豊 / 卒業

上関原発問題

人生において、また人々の歴史において、二者択一の問題に直面することがしばしばある。

賛成か反対か、支持か不支持か、やるかやらないか。

得てしてこうした二元論は人々を二つに分断する。

結果として、この二元論は権力をもっていたり、数が多かったり、富が集中していたりする方に軍配が上がることが多い。

しかし、冷静に考えると、実は二元論からの脱出によって解決することがある。

物事が単純化し、二元論だけで人々の意見が分かれてしまうことは多様な意見を検討する機会をなくしてしまう。



山口県上関町ではどうだろうか。


今、上関町では町民が二つに分かれている。

原子力発電所の建設に賛成か、反対か。


今回はそのことについての私見を述べたいと思う。




<基本情報>

●上関町の場所

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原子力発電所は、地図中の長島の西端(豊後水道と書かれている辺り・田ノ浦)を埋め立てて建造予定。

"豊後水道"の"豊"の字の左にある島は祝島であり、ここも上関町に含まれる。



●原発建設団体

中国電力




●原子力発電所とは?

wikipedia 原子力発電  を参照




●原発の危険性

原発がどんなものか知ってほしい  参照




●原発の必要性

原子力発電の必要性  を参照



●略歴

詳しくは日本人と日本に優しいしゅふの独り言 へ。

・1982年 計画浮上 → 当時の町長「町民の合意があれば誘致してもよい」
・1983年 原発推進派の片山氏が町長に。以降、5期20年町長。
・2000年 中国電力が漁業補償金として125億5千万円の半額を支払い。祝島漁協は受け取り拒否。
・2008年 山口県が中国電力に対し、工事に関わる公有水面埋め立て免許を交付
・2010年 山口地裁が反対派による沖合埋め立て工事の妨害を禁止。続ける場合には1日500万の支払い。
・2011年 中国電力が沖合埋め立てを強行



●賛成:反対の比率

賛成8:反対4
(上関町議会議席数から)



●住民における賛成派の主な理由

・原発受け入れによる補償金・交付金などによる安定収入が見込める。
(既に総額24億円の寄付金を中国電力から受け取っている)

・発電所関係者の定住によって過疎化に歯止めをかけ、人口増による産業の活性化に期待。

・住民の多くが住んでいる土地から、建造予定地は離れたところにあり、長島の住民からはあまり見えないため、抵抗感が少ない。




●住民における反対派の主な理由

・主に祝島の住人※は、原発が祝島側の海に面しているため、漁業資源への影響を懸念。

※1 祝島の住人は豊かな海資源と農業に依拠した自給自足に近い生活をしている。
※2 原子力発電は冷却のために毎秒190トンもの海水を使い、また冷却させているため7度程度高くなった海水を排水する。放射能が混入する可能性もある。

・埋め立てによって海中資源、特に瀬戸内の上関周辺にしかいない生態系を懸念。

・放射能・原発事故へのリスク懸念。

・原子力発電自体への懸念。

・活断層に近い場所に建造する予定のため、そのリスク懸念。




●中国電力側の建造理由

公式理由は、中国電力 建設理由  を参照


以下は、私見。

中国電力としては、原子力発電所建設によって、その実績を得、海外への原発建設によって利益を得る考えなのではなかろうか。

でなければ、既におおよその電力を養えているにもかかわらず、建設を強行するメリットがあまり感じられない。

現在、諸外国では現在主流の火力発電を環境的配慮および、化石燃料の不安から原子力発電に切り替える動きが見られている。

こうした国家的な動きの中で、自国における建設実績が諸外国に対するアピールになるのは言うまでもない。



(また、多少オカルトではあるが、原子力発電所を日本に多数作ることで戦争リスクを減らしていることも一因としてあるのではないか。
軍事的な核を保有できない日本にとって、合法的に核を所有できることは国際外交の上でも、強い一手となりうる。)




●現状

上関原発反対派による、ネット上での建設反対キャンペーンおよび、COP10や山口県庁前で行われた若者によるハンガーストライキ (何も食べないことでプレッシャーを与えるストライキ)によって、日本全国に上関原発問題が広がりつつある。

ただし、大手メディアやテレビではあまり報道されていない。







<私見>

私自身もこの問題に興味を持ったのは本当につい最近です。

きっかけは、2月19日に東京・笹塚のタイワハウスで行われた上関原発中止イベントに参加したことです。

そのイベントで私が思ったのは、「みんな二元論に捕らわれていないかな?」ということです。



私がツイッターやインターネットで上関原発についての情報を見る限り、身の回りの人はほとんど反対です。

特に都市部の人は反対という意見が多いような気がします。

理由は、環境に対する影響や原発のリスク、祝島住民に対する共感・同意・同情などです。

中には熱心に原発や中国電力に対するネガティブキャンペーンを行っている人もいます。



ただ、もちろん感情をぶつけ合うのは大事ではあると思うのですが、約30年続いてきたこの二元論において、感情をぶつけ合うだけで解決するとは到底思えないのです。



かく言う私も大別すれば、反対派ですし、現在行われている中国電力による埋め立ての強行には異を唱えます。

ですが、原発建造に対する賛成・反対は双方に理由があり、建造するにしろしないにしろ、問題が生じることでしょう。



ですから、単に中止を訴えても、中国電力側だけでなく住民もそれはきっと認めません。




では、どうしたらいいのでしょうか。


ここでいったん、各者の訴えを整理してみましょう。

推進派

地域の活性化と豊かな町の形成


反対派

環境と人に対する負荷の排除と漁業資源の確保


中国電力

利益最大化のための技術獲得と収益確保



単純化すれば、三者ともこれらが満たされれば問題はかなり小さくなるでしょう。

要は、これらを満たす解決策を提示できれば良いわけです。



そこで私が提案したいのは、【先進的自然エネルギー発電によるエネルギー自給研究所】の建設です。

やたら長いですが、何をしたいかというと、日本の自然エネルギー発電を世界トップクラスのものに完成させるための研究所を国と共同でやるということです。



現在、自然エネルギー発電は、太陽光や波力、風力、地熱など様々なものがありますが、どれも変電効率や発電のムラ等の問題で実用化には至っていません。

しかし、各国ともこうした自然の無限エネルギー発電の重要性には気づいています。


そこで、日本がこの分野においてリーダーシップを取れれば、世界的な需要が見込まれ、経済発展と環境保全の両者を一気に得ることが出来ます



そのための研究地として、上関町に協力してもらうのです。



そこでは変電効率を改善することは当然ながら、発電のムラに関しては、R水素 を用い、実用的な実験を上関町の方に行ってもらいます。

R水素とは、発電のムラによって余った電力を用い、H2O(水)を分解し、H2(水素)の状態で保存することで、電力が必要となったときにそのH2を酸素と結合させることで再び電力に還元する技術のことです。

要するに、電力を保存できる技術です。



これはツバルでも実験的に実用化されているもの ですが、これを上関町の方々にも使ってもらうのです。


上関町の方々にとっては、そうした先進的な実験によって雇用と人口の増加が見込め、産業も活性化出来ますし、祝島の人たちにとっても自然エネルギー発電によるものなので環境を害することがありませんから、それまでどおりに生活できます。

また、中国電力にとっても、国と共同でこのプロジェクトを行うことが出来れば初期投資を減らし、且つ反対派による抵抗も減らし、そして実用化できれば諸外国に技術の提供を行うことで莫大な利益を得ることが出来ます。




この案は、私ひとりの頭で考えた、素人考えの代物ですが、二元論からの脱出を図り、第三の道を話し合いによって模索することでもっといい意見が出ると思います。


だから、反対する人も推進する人も、「話し合う」ことをもっとしてください。


両者とも感情的になりすぎているような気がして、そして二元論に捕らわれているような気がしてならないのです。







様々な意見をお待ちしています。

当たり前のことがすばらしい

今、私を含めた都会の人間は、「死」や「命」というものを遠ざけて生きている。


健康な人が明日死ぬなんて考えないし、何かのきっかけがなければ、命なんて当たり前すぎて遠く忘れ去られた存在だ。


自分の命だってそうなのだから、まして他人の命なんて記憶の片隅にも残らない。


今日誰が死んだとか、事故が起きて死傷者が出たとか、毎日のようにニュースで報道されているが、

「ああ、かわいそう」

と一瞬思い、次の瞬間には忘れてしまう。




同じ人間にすらそうなのだから、動物に対してはもっと意識していない。


もはや、そのモノに「命」がある・あったと認識さえしていないかもしれない。


例えば鶏なら、合理化の末、一般の2倍の速度で2倍の大きさで成長し、機械で首を切られ、合理的に肉にされていく。



経済発展はある人々を便利にしながらも、「死」や「命」を軽んじるものに変化を遂げたのだ。







だからこそ、知らなければならない。

「命」の重さと、「頂きます」の意味を。





というわけで、先日千葉県のあいよ農場で鶏の屠殺にいってきました。

ここからは画像付きで書いていきますが、モザイクとかはないので、グロ耐性のない人はここで引き返して下さい。

だけど、これを本当に読んでほしいし、見てほしい、逃げないでほしい。

これが「命」を頂くということなんだと。












実は私は屠殺が初めてだったので、前日から少し緊張していた。

そして、この鶏を眼前に据えると、より身体に緊張が走った。

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屠殺する5羽の鶏



屠殺は、逃げないように羽を交差させて締め、足に挟んで頭を持ち、首を切る。

「羽交い締め」はこのことからきたのだと実感した。

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羽交い締めされた鶏



正直な話、怖かった。

「命」をこの手で奪うというのが無性に怖かった。

だから、感情をできる限り押し殺して、羽を締め、足に挟み、首を切った。

今回は血も頂くため、完全に切らず、動脈を切って血を出した。

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頂けるところは全て頂く



切り方が甘いと、完全には絶命していなかったようで、血を出した後も、暴れた。

しかし、しばらくすると、沈黙した。

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普通の包丁



それから、そのままでは捌けないため、羽を取るために70℃くらいのお湯に2・3分浸す。

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必要な作業



その後、羽を取る。

ムッとしたようなにおいの中で羽を取る。

だんだん鳥肌が見えてくる。

鳥肌とはこういうものなのかと、真に理解できた。

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そうして羽を全て取りきると、ヴィレッジバンガードなどで売っているような鶏になる。

こうして実際にやってみて考えると、あれは酷いおもちゃだ。

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羽なしの鶏



これで捌ける状態になる。

捌いている内に、ようやく肉と認識できるようになってくる。

肉と鶏の挾間は、羽があるかないかなのか、皮の内側が見えるか否かなのか考えさせられた。


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こうして捌いた鶏はおいしく頂いた。

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ハツ・砂肝・レバー・ささみのお刺身



ハツは心臓。

砂肝は、人間で言えば胃のようなモノ。

鶏は歯がないので咀嚼ができないので、土を一緒についばみ、砂肝に土をためてえさをすりつぶすのだという。

そのため、砂肝には黄色くなった土がいっぱい入っていた。


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手羽先の唐揚げ



私たちは1羽の鶏からわずかしか取れない手羽先を居酒屋で何本も食べている。

4つ食べるだけで、2羽分の鳥を食べているのだ。


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つくね







この屠殺によって、劇的に意識が変わったわけではない。

たぶんこれからも肉を頂くし、もしかしたらマックにも入るかもしれない(あまり入らないようにはしているが)。

だけど、明らかに知る前と知った後では感覚が違う。

肉を食べるときには感謝の気持ちがちゃんとこめられるのだ。





知っていると知らないは大きな差があると思う。

だからといってみんなにこれを体験してほしいとは思わない。

けれども、「命」を頂くという当たり前のことを、このブログを読んで少しでも感じてくれたら本望である。





title: フードインク / CMより

手間がかかるのもいいもんだよな

先日、手賀沼 まで自転車でちゃりんぽ(チャリ+散歩)してきました!



その道中に、房の駅 という直売所があり、楽しそうだったので寄ってみることにしました。

房の駅は、千葉の食材だけを揃えた千葉を愛する人の直売所です。

千葉の海産物から野菜まで数多く取り揃えてあり、広い駐車スペースや足湯まであるので、ちょっと距離があっても行きたくなるような場所です。




そのあと、目的地である手賀沼目の前の道の駅 しょうなん にも入ってみました。

ここも、農産物直売所がありました。

ただ、農産物「直売所」と言うわりに地元の食材が少なくちょっと残念でした。




この二つの直売所に行ってみて思ったのですが、「直売所」は「直売所」で有るべきだと思います。



どういうことかというと、房の駅は文字通り、地域の方が房の駅まで生産物を持ってきて販売している「直売所」です。

「直ぐに売っている所」なわけですね。




対して、道の駅 しょうなんはというと、全国各地の食材を集めている感じで、確かにスーパーよりも直接的な感じはしますが、スーパーとの差がわからないような感じでした。

これでは、「直ぐに売っている所」かどうかが怪しいです。





私は、「直売所」の名を冠しているのならば「直ぐに売っている所」であるべきであると思います。

最近の「直売所」ブームで年々数が増え、今では全国に約16000ほどの「直売所」があると言われています。

もちろん、他店との差別化のために珍しい食材や加工品を他地域から仕入れるのは良いと思いますが、「直売所」の本分を忘れ、「ただ良い感じの野菜を売っている所」となってしまっている「直売所」もあると思うのです。



一般的に農産物は、JAなどを通してスーパーで売られています。

しかし、スーパーで重視されるのは、【安定供給】と【画一的品質】です。


従って、大きすぎたり小さすぎたりする品物(いわゆる規格外品)は、殆ど売ることができません。

即ち、どんなにこだわって作ったとしても、その価値は認められないと言ってもいいでしょう。





ですが、「直売所」は違います。

「直売所」では、生産者はその「人格」を品物に対して与えることが出来ます。

大きすぎるネギや小さい聖護院ダイコンといった、個性ある品物が「直売所」では許容されるのです。





「直売所」がスーパーと違って、そのような場であるからこそ、地域に根差した施設であるべきなのです。

消費者はその個性ある野菜に触れ、ひいては生産者の「人格」に触れることが出来ます。


「ああ、こんな人が作ってるんだ」

「この人が近くで、こんな立派な白菜を作ってるんだ」

「またあの人が作った椎茸を食べたいな」


その「人格」に触れることで、このようなことを考えられるのです。





「直売所」の品ぞろえはお世辞にも豊富とは言えませんし、季節によって偏りが出ることもあるでしょう。

しかし、「直売所」の商品に触れ、その「人格」に触れてみることはまた新たな食の楽しみをあなたに与えてくれるものです。

「直ぐに売る所」であるからこそ、楽しめる喜びがある。

だから、「直売所」は「直売所」であるべきだと思うのです。



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また明日 / SONY α55 f/5.6 1/1250sec ISO100 55mm

手賀沼にて。



title: 鋼の錬金術師 / エドワード・エルリック

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