細谷亮太 著「医師としてできること できなかったこと」・・・
細谷亮太 著「医師としてできること できなかったこと」
― 川の見える病院から
2003年6月20日第一刷発行
2008年10月21日第四刷発行
講談社+α文庫
<もくじ>
Ⅰ 生きることを子どもたちが教えてくれた
容子ちゃんの話
麻意ちゃんのクリスマス
ホルンとトランペット
真美ちゃんが今朝、自宅で
Ⅱ 子どもたちはいつも未来へ向かう
池田君の電話
早春の屋上で
最高のおもてなし
サトシ君の誕生日
Ⅲ 病気の子どもと共に生きる人びと
ケンちゃんの保育園入園作戦
二冊の本
E先生の話
I君の紹介状
Ⅳ 忘れられない子どもたち
お姉ちゃんのピアス
患者さんの権利
無禁室のKちゃん
チエちゃんの就職
Ⅴ 泣き虫な医者
コウちゃんとおばあちゃん
お父さんとヨシ君
結実ちゃんの十日間
プロフェッショナル・アティチュード
「このまま生きたいですか」
Ⅵ 番外編・二百人の子を背負って ― 四国歩き遍路の十日間
旅だちまで
プロローグ(三月一日)
姿をととのえて、いざ出発(三月二日)
子どもたちの声がする山のなか(三月三日)
阿波の風花(三月四日)
はじめてのお布施(三月五日)
善人宿でしかられる(三月六日)
ひたすらに海沿いの道を歩く(三月七日)
空海の聖地(三月八日)
肩に乗った子にいたずらされて(三月九日~)
おまけのエピローグ
あとがき
文庫版のあとがき
本書は、小児がんの治療は本来どうあるべきかを読者の方々に考えてもらい、生きることの大切さを感じてもらおうという企画のもと、当時読みきかせの機関紙「子どもと読書」に著者が書いていた連続エッセイ「川の見える病院から」をまとめて1995年3月に岩崎書店より『川の見える病院から ― がんとたたかう子どもたちと』として刊行し、その後文庫化にあたり、加筆訂正したものです。
ここには、細谷さんが小児科医として多くの子どもたちの治療を通して、彼らの生と死に真摯に向き合ってきた日々が綴られています。
前半が45歳の頃、後半は55歳の細谷さん。
最初に書かれた当時は、小児白血病になるとほぼ助からなかった時代だったんですね。。
先生が接したたくさんの子どもたちとの思い出を読みながら、亡くなっていく子、病に打ち勝って生きていく子、それぞれの真実の物語に触れながら自然と涙が溢れてくるのを止めることができませんでした。
白血病が一旦は寛解したもののやがて再発し治療に臨む子、治療の甲斐もなく結局亡くなってしまう子、骨肉腫の手術で体の一部を失っても自分の夢に向かって頑張っている子、身体障害が残っても強く生きる子、進行性のガンに全身を冒されながら「看護婦さん、わたし、いつまでがんばればいいのと」訴えながら旅だっていった小学生の女の子・・・、脳腫瘍ですでに手の施しようがなくなり、最後は家に帰りたいと訴えながらも、同じ病気で先に亡くなった妹と会えるので死ぬのは怖くないと言いながら旅だった女の子。
生きるか死ぬかの病を抱えた子は、それぞれが子供なりに覚悟を持って強く耐えているんだと初めて知らされました。
この細谷先生、本を読んでいてわかるのですが、すごく涙もろいんです。
“プロフェッショナル・アティチュード”の項でそれについて触れていますが、そう言われてみると私の経験からも、人が亡くなったときに医者が泣いたなんてことはあまり記憶にありませんね。
その点、細谷先生の場合は相手がまだ未来のある子どもさん達なので、特に泣けてくるのかもしれません。
細谷先生のこの言葉が心に残ります。
「患者さんに死なれても泣かないですむようになったら、この仕事はやめようと思っている」と。
30年の医師生活で200人の子どもたちを見送った細谷先生の言葉は非常に重いものがあります。
番外編の”十日間限定四国歩き遍路”の道中記録は、ガラッと変わって明るくなって楽しく読めました。
私も死ぬ前にはいつか四国八十八か所を巡礼してみたいと思った次第。
最後に、文庫本表紙裏に細谷亮太さんの略歴が載っていたので一部抜粋しておきます。
ほそや・りょうた ― 1948年、山形県に生まれる。東北大学医学部卒業後、聖路加国際病院小児科に勤務。小児がんの先端的治療の習得のため、テキサス大学総合がん研究所に、1977年から3年間赴任。聖路加国際病院小児科部長(当時)。
とあり顔写真も載っていましたが、そう言えば何かのメディアで拝見したことがあるのでしょう、見覚えがあります。
現在は76歳、wikipediaには2022年現在は聖路加国際病院小児科顧問とありました。
また一つ、素敵な本との出会いに感謝です・・・。