「帰国船 北朝鮮 凍土への旅立ち」・・・ | モバイルおやじ@curbのブログ

「帰国船 北朝鮮 凍土への旅立ち」・・・

「帰国船 北朝鮮 凍土への旅立ち」

鄭 箕海(チョン・キヘ) 著

鄭 益友(チョン・イグ) 訳

「帰国船」北朝鮮 凍土への旅立ち

 

1997年11月10日 第一刷

文春文庫

 

<目次>

序章  平壌で再会した初恋の人

     中学時代の甘美な追憶

     「主体の国」の別れ方

第一章 凍土への旅路

     船上で「ダンチョネ節」

     咸興での”配置事業”

第二章 村八分の新生活

     亡くなった二人の日本人妻

     恐怖の食糧配給制度

     「監視対象」のレッテル

第三章 拘留生活と「赤とんぼ」

     スパイ容疑で逮捕される

     雪の日の釈放と報復

     「総聯委員長夫人を監視せよ」

第四章 胸痛む父母の死

     貧しさの中でガンを患う

     “自力更生”の葬儀

第五章 炭鉱への”出稼ぎ”

     深刻な機械設備・装備難

     モグラの穴の重労働

     底辺の男女の異性交渉

第六章 “自白事業”と都落ち

     反逆者と断罪されて

     さようなら定州よ

第七章 懲罰で始った新生活

     食料配給遮断のシステム

     生活の土台作り

     “出世街道”を歩む

第八章 決死の北朝鮮脱出

     帰国者を呼ぶ「心の故郷」

     苦悩の末の最終決断

補稿  「日本人妻里帰り」問題に思う

 

巻末資料 北朝鮮「帰国事業」

 帰国協定/当時の雑誌・新聞記事/北朝鮮の受入れ体制/

共和国人民の「出身成分」分類/「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」発足/

関連年表

 

  著者あとがき

  訳者あとがき

 

 

 

北朝鮮から逃亡する4年前の1989年、著者が日本の茨城朝鮮中級学校2年当時にガールフレンドだった金光淑(キム・クワンスク)と平壌の烽火山旅館(ボンファサンホテル)内の外貨食堂で再会する場面から回想が始まっている。北に帰国して30年ぶりの再会。

 

1960年6月24日、茨城県土浦市で手広く商売をする長兄一家を残し、当時17歳だった著者は父親が決めた意思により、一旦新潟の日赤センターに三泊四日間収容された後、第27次帰国船で家族ぐるみ北朝鮮に帰国することになる。

 

当時、在日朝鮮人団体の在日朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)が主導し、1959年12月から在日同胞の北朝鮮への帰国事業を展開。約93,000人の帰国者を北朝鮮に送り出した。

これについては、当時の朝日、毎日、読売、産経等の新聞や共同通信のレポートも北の誤った情報に踊らされ在日朝鮮人の帰国熱を煽ったとされる。

 

当時の帰国船はのちの万景峯号(マンギョンボン)とは違い、ソ連の軍艦を改造した老朽の貨客船で、初夏だというのに冷蔵庫さえ備え付けられていなかったという。

 

その帰国船に乗って以降、”夢の楽園”と謳われた社会主義祖国の貧しさを知り裏切られたことに気づく。

 

1965年8月末、著者は突然捜査機関に逮捕され拘置所に入れられる。

何人かの帰国者の友人がいたところで、「できることなら日本に帰りたい」と話したことを密告されたのが原因だった。北朝鮮に帰国して5年、結婚し子供がうまれて間もない22歳の時だった。

 

零下30度にもなる酷寒の監房で4か月間、凍傷や栄養失調、心筋症を患いながら未決囚として拘留され、その間日光浴も数分間の入浴もたったの2回のみ。

 

1965年12月30日にやっと恵山拘留場から放免されるのだが、結局祖国に帰っても在日として熾烈な監視と差別を受け続けることになるのだった。

 

北への帰国からわずか7年後の1967年、父を67歳、その約三週間後には65歳で母をともにガンで亡くす。

 

著者の父は1900年、朝鮮半島東南地方の貧しい農家に生まれる。

元は両班の家門だったが、朝鮮末期に没落。

1924年、当時24歳だった父は意を決して単身日本に出稼ぎに出る。

故郷に残った22歳の母は、一歳の男の子と女の子一人を女手一つで育てるため必死になって働きながら父親の帰りを待ったが、父は帰ってこない。

結局、1936年に母は意を決して12歳の長男と10歳の長女を連れて関釜連絡船で日本に渡り、その後福島の火力発電所で働く父と再会。母も女土方になって同じ現場で働くことになる。

 

やがて太平洋戦争がはじまり、1945年8月15日、日本が降伏し戦争が終結。

朝鮮は解放の日を迎え、家族は茨城県土浦市郊外の古い木造家屋に暮らすようになる。

 

母は焼き芋を売り歩きながら養豚にも励み、長兄は屋台の飴売りなどで蓄えたお金を元手に小さなパチンコ店をオープンさせ、同じ土浦市の庭付き2階建てに引っ越し、その1階を改装して編物学院も運営するなど一家の生活も安定してくるのだが、共和国への帰国運動が展開されたのはちょうどこの頃。

 

長年日本で暮らし民族的偏見や差別にうんざりした父親は、子どもの将来を社会主義祖国に託し、総聯の喧伝を真に受け「祖国はやがて金日成首相を中心に統一される」と信じ、統一されたあと南に帰ればいいと単純に考えていた。

 

著者は北に帰ったのちも公民証の出生地欄に「日本」と記載され、その祖国でも差別される。

 

それでも差別に耐えながら必死に働き、北朝鮮に帰国して24年目に工場指導部から「隠れた功労者称号」を授与され、その3年後には朝鮮労働党の正式党員になることもができた。北朝鮮では党員でなければ”人にあらず”の身分差別社会なのだ。

続いて郡人民会議代議員に推薦されるが、これも労働意欲を奮い立たせるための党の政策。

その当時記憶に残る事件には、1987年11月29日に発生した大韓航空機爆破事件がある。

金日成の後継者となる金正日が46歳の頃。

 

やがて1992年には北朝鮮各地を食糧難が襲い、米やトウモロコシなどの主食も配給されなくなる。

 

最後の章で、著者が北朝鮮から中国に逃亡し、韓国に亡命した経緯が綴られている。

 

1993年12月に逃走を決意するも、当時は妻と5人の子どもがいる状況。

長女は嫁ぎ、長男は人民軍の兵役、次女はてんかんの発作を抱え、当時17歳の次男は脊椎カリエスで寝たきりの状態。全て北での栄養状態の貧しさが原因。

 

当初、中国の延辺朝鮮族自治州で働くつもりで北朝鮮の脱出を計画。

生きていさせすればいつかは妻や子どもに会えると信じ、12月30日、山に焚き木を取りに行くと言って、家族にも内緒で単身脱出を決行。

 

零下30度に凍った鴨緑江を150mほど全力で駆け抜けて何とか中国に入ったものの中国語もできず仕事も見つからない。

思い切って延吉市で偶然出会った青年に訳を話し、幸運にもその青年に匿われることになる。彼は夜の流しタクシー運転手のボディーガードだった。

 

延辺では北朝鮮の秘密警察が北朝鮮からの密出国者を見つけだすため監視の目を光らせており、もし捕まれば北朝鮮で拷問を受け、公開銃殺される運命。

 

モンゴルか南朝鮮(韓国)への亡命を考えたが、モンゴルはあまりに遠く言葉も話せないため青年に勧められ韓国への亡命を決意。

1994年2月6日、香港を経由して釜山に到着し韓国に亡命することに成功。

 

その後1994年7月は金日成が死去。

北の政権は金正日に継承される。

 

物語の回想はここで唐突に終わっている。

著者がその後どうなって、家族と再会が果たせたのかも不明だが、仮に著者が生きていれば現在80歳になる。

 

日本のすぐ北の国で、当時本当にこんなことが起こっていたのかと驚愕させられた。

これは、まさに言葉では言い尽くせないほどの過酷な運命に人生を翻弄された当事者だけが語ることのできる真実の記録だ。