松本清張 著「両像・森鷗外」・・・ | モバイルおやじ@curbのブログ

松本清張 著「両像・森鷗外」・・・

松本清張 著「両像・森鷗外」

1997年11月10日 第一刷

文春文庫

※単行本は1994年11月、文藝春秋刊

 

まずは、巻末の[編集部註]から以下を引用しておきましょう。

『本作品は「文藝春秋」1985年5月号~10月号、12月号に発表された「二醫官傳」に加筆、改題したものである。発表後すぐ単行本の編集作業に入り、90年8月には著者の最終的なチェックを待つばかりとなった。この段階で著者は「どうしても構成上、手を加えたい部分がある」と進行を止め、91年3月下旬、週刊誌連載小説執筆の合間に追加原稿を書き始めた。鷗外の二人の岳父・赤松則良と荒木博臣のプロフィールである。しかし、それはまとまった決定稿に至らず、また本文のどの位置につけ加えるべきかの指示もされないまま、92年4月、著者は病に倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。』

と書かれています。

 

1953年に作品『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞した清張が、1992年8月に82歳で亡くなるのを前にして、改めて鷗外に思いを馳せたと言うところが面白いですね。

 

因みに、清張の遺作としては新興宗教団体を扱った「神々の乱心」がそれにあたるようですが、単行本としてみれば、この「両像・森鷗外」もその一つになりますね。

 

連載されたものをまとめたからなのか、ここには特に目次のようなものはなく、全体を通して鷗外についての人物像をその作品を辿ることで詳細に探ろうと努めた記録になっています。

 

北九州(現・小倉北区)出身の清張が小倉時代の鷗外に興味を持ち「或る『小倉日記』伝」を書いたのが1953年。この作品は、それから32年後の昭和60年(1985)3月、近江八幡での所用のついでに、地元有志の案内で甲賀郡土山にある常明寺を清張自身が訪ねる場面から始まっています。

因みに、土山は安藤広重の描いた東海道五十三次の四十九次の宿駅。

 

常明寺には鷗外の祖父白仙翁の墓があり、ちょうど85年前の明治33年3月2日に鷗外がここを訪れていたことが日記にも残されているため、清張もそれを辿ったわけです。

 

鷗外がここを訪れる前年の明治32年6月に、第十二師団軍医部長として九州小倉に左遷(事実は左遷ではなかった?)され、この常明寺を訪れたのはその翌年3月に陸軍軍医部長会議で上京する途中のこと。

 

鷗外の祖父の森白仙は、石見国津和野藩亀井家に仕えた第十二代目の藩医にあたり、万延元年4月に白仙は藩主の参勤交代に随って江戸に上った後、病のために藩主の帰国には随えず、その後3ヶ月ほど遅れて江戸を発ったもののこの土山に至った夜に急死している。

死因は脚気による心不全だったと考えられます。

 

明治33年に鷗外がこの地を訪れた際には、住職に過去帳を確認し白仙の俗名を見出し墓の存在を尋ね、ようやく墓碑らしきものを探しだした時には、寺の外れにほぼ打ち捨てられている状態だったといいます。それを見た鷗外は寺に金をだして頼み境内に移してもらったのですが、ただその後この土山の墓を鷗外が再び訪ねることはありませんでした。

 

因みに、周防三田尻から医学修行に来ていた吉次泰造(維新後に静男と改名)が白仙に見込まれて娘峰子の婿となり、白仙の歿した翌文久二年に生まれたのが鷗外、すなわち森林太郎。

 

後になって白仙翁の墓所には、白仙の夫人の清、鷗外の母峰子も併せ三基の墓があったのが、戦後、鷗外の息子於菟の希望によりすべて津和野の森家の菩提寺に移されたため、清張が訪れた際には寺の墓地の塀際に三坪ほどの空地が古い延べ石で区切られ、その中に石の小さな塔婆が置かれているだけだったといいます。

 

 

以下はこの清張の作品を読んで知識を得た内容をまとめてみました。

 

幼い頃から秀才として周囲から期待され、まさに文武両道を極めた鷗外ですが、彼の日記によれば”官吏が文筆でも名を得ることは出世に不利になる”ことは自覚していたようです。

 

明治17年に陸軍省から命じられてドイツに留学し、帰国後に鷗外は小説を書き始めるのですが、当時その”文筆でも名を得た”という初期の作品は以下の4つ。

明治23年「うたかたの記」「舞姫」

明治24年「文づかい」

明治30年「そめちがへ」

因みに「うたかたの記」はドイツから帰国して書いた第一作となります。

 

当時、鷗外が小倉に左遷されたと考えていた件については、軍医総監石黒や鷗外と同窓で年長の小池医務局長との関係が清張によって詳細に分析されています。

 

鷗外にとっての2年10か月に及ぶ小倉時代(1899-1902)については、鷗外の弟森潤三郎によれば沈黙時代とされ、小説は書かず、明治25年から始めたアンデルセン「即興詩人」の翻訳を9年の歳月をかけて明治34年にようやく小倉で完成させているだけ。

 

 

鷗外の私生活をみると、ドイツから帰国した翌年の明治22年に海軍中将赤松則良(当時49歳・男爵)の長女登志子(登志子の母貞の姉は榎本武揚の妻)と西周の媒酌で結婚。当時はまだ鷗外28歳の若さ。

 

ところが翌明治23年に妻登志子の留守に弟の篤次郎と潤三郎を連れて新居を出て本郷千駄木の借家(後に漱石が住む)に転居。その後赤松が登志子を引き取って離婚し、登志子は間もなくして他家へ再婚。小倉時代の日記には、新聞記事(1900年)を見て鷗外は再婚先で登志子が亡くなったことを知ったとあります。

1890年9月に登志子との間に長男於菟が生まれていますが、森家に引き取られるまでは、生後間もなく5歳になるまで他家に預けられていました。

 

赤松と西は文久二年に日本初の留学生としてオランダに留学した同期生であり、この唐突な離婚騒動により鷗外は西の怒りを買い明治30年に西が他界するまで断絶が続いたとされていますが、清張はそれに異議を唱えています。。

 

ここで目を惹くのは、鷗外が小倉へ左遷された経緯について、石黒総監が絡む陸軍内部の人事について、多くの関係資料や日記等から克明に事実を読み解きながら清張が独自の見解を示しているところであり、併せて、これまで判然としなかった鷗外と登志子との短期間での離婚について清張の唱える説も説得力をもって伝わってきます。

 

因みに、”鷗外とドイツ陸軍衛生制度視察に出張した石黒と留学生森林太郎はベルリンから同船で帰国した間柄で、森の練達なドイツ語の通訳によって助けられた”と書かれており、「西周日記」には登志子の離婚問題について西が森の上司の石黒を呼んで相談したと書かれていることも、小倉左遷に絡む石黒と鷗外の関係性を窺わせて興味深いものがあります。

 

ここまで読んでみても、単に表面に見える事実にだけ注目するのではなく、関連する資料を克明に読み解きながら、一切の予断を排してその裏に隠された真実に鋭く目を向ける清張の誠実性・独自性が感じられます。

 

鷗外は1907年(明治42年)に陸軍軍医総監に昇進し、陸軍省医務局長となったことで、軍医のトップに昇り詰めます。

 

やがて、35年の陸軍生活を終え陸軍軍医総監を退き予備役に編入されますが、その翌年には宮内省に入り帝室博物館総長兼図書頭に就くのですが、大正5年(1916年)には伝記「澁江抽齋」を書き始めます。

 

この本の大半はこの「澁江抽齋」と同じく伝記「伊澤蘭軒」の分析に多くが割かれており、正直読み応えがあると言うよりは、かなり読み疲れたと言うのが実感。

 

これを読めば、もう「澁江抽齋」も「伊澤蘭軒」も読まなくていい気がします。

 

途中、清張が鷗外と同時代に生きた漱石について言及した箇所があり、次のように分析しています。

 

漱石が朝日新聞社に入社し小説家一本で生きると決めたのは明治40年、漱石41歳の時ですが、その時鷗外は漱石より5つ上の46歳、陸軍軍医総監に昇進し陸軍省医務局長になっています。

 

鷗外は「舞姫」「文づかい」を書いたあと日清戦争に1年間従軍、あいだ3年おいて九州小倉へ転勤、約3年後に東京に戻り、2年後には日露戦争に従軍し2年後に帰還しているため通算6年のあいだ中央文壇からも文筆活動からも遠ざかっていました。

 

このような観点からみて、清張は、文学活動において鷗外のハンディキャップは漱石よりもはるかに大きいと断じています。

 

また漱石の「倫敦塔」(明治38年)は鷗外の初期の作品から刺戟されたように思う、とも書いています。

 

その他で言えば、鷗外45歳の時に、親友賀古鶴所の仲立ちで当時69歳の山県有朋(元帥)と知遇を得、その後官吏として厚遇される経緯に触れています。

 

また乃木希典との交友にも分析が及び、明治天皇崩御による乃木夫妻が殉死した大正元年9月13日について触れ、それに繋がる「興津家由緒書」「忠興公御以来御三代殉死之面々抜書」を元にして書かれた「興津弥彌五右衛門の遺書」と「阿部茶事談」を元にした「阿部一族」にも清張独自の解説がなされています。

 

鷗外の作品「空車」に関しては、白樺派を暗喩したとする清張の推察は鋭い説得力があり、一流の批評家としての清張が感じられます。

 

「北條霞亭」の死因については、脚気衝心ではなく萎縮腎による尿毒症だったと考えた鷗外ですが、清張の言う通り、鷗外の祖父森白仙が脚気衝心で亡くなり、鷗外自身が萎縮腎で亡くなったのは不思議な符合を感じさせます。

 

改めてwikipediaで鷗外の著作を調べてみましたが、その多方面にわたること凄まじい。

小説

戯曲

史伝

翻訳(小説)

翻訳(戯曲)

詩歌および作詞

文芸評論

美学論

評伝

医学衛生学

随筆

紀行

箴言集

海外ニュース

日記

その他

 

まさに軍医、その他公務を果たしながら満60歳<1862(文久2年)-1922(大正11年) >で没するまで、よくこれだけ文筆での業績を残したものだと感心させられます。

 

本の最後に、鷗外について清張が評した箇所があります。

 

「鷗外は吏道にも励み、文芸の道にも励んだ稀有の人である。しかもその著作の量は夥しい。」と。

 

さて、清張自身は朝4時過ぎには目覚めるそうです。

 

この本は、鷗外と言う人物像に深く斬りこみ、その稀有な才能の持ち主を一人の人間として活き活きと浮かび上がらせています。

一方で、自ら現地に赴きその目で事実を確認したり見聞きし、併せて膨大な関連資料からその本質を見出すという清張の物書きとしてのエネルギーも、ある意味鷗外の持ったエネルギーに通ずるように感じます。

 

優れた文筆家としての鷗外と、医者として官吏の階段を昇りつめた鷗外についての二面性に光をあてて書かれたものですが、その一方で清張という作家の生の人物像を感じさせる内容になっているところが興味深い。

 

最後に、よく知られている、鷗外が親友の賀古鶴所に口述筆記させた遺書を記しておきましょう。

 

「死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス」

 

鷗外は、幼い頃に故郷の石見を出てから一度も帰省することはありませんでした・・。