永井龍男 著「石版東京図絵」・・・ | モバイルおやじ@curbのブログ

永井龍男 著「石版東京図絵」・・・

永井龍男 著「石版東京図絵」

中公文庫

昭和50年3月25日印刷

昭和50年4月10日発行

 

<目次>

振り出し

秋季大祭

活動写真

抜け裏

大売出し

松の内

小僧

かぎざき

バラック

草の実

あとがき

 

 

この小説は、著者のあとがきによれば、”「現代日本の小説」第一作として、昭和42年1月4日より、126回にわたり「毎日新聞」に連載された”とあります。

 

ここには、日清日露戦争が終わった明治40年頃の東京下町の市井の日常の暮らしの風景が、物語の主人公たちを通して活き活きと描き出されています。

 

物語の主人公は前半が川崎順造、後半は関由太郎

 

 

川崎順造は、肺を病みながら印刷所で校正係りを勤める病弱の父親を持つ一家の長男。 母親の他に弟仁之助と妹の精子がおり家族5人の暮らし向きはかなり苦しい。 

 

一方の関由太郎は、父親がたたき大工で、母親のお道、妹よね子と弟三郎の4人暮らしの長男で、尋常小学校では順造と遊び仲間。 

 

 

内容を一言で言えば、この二人がやがてお互い社会に出て働きながら別々の人生を歩んでいくという物語ですね。

 

 

しかしながら、素朴な筆致で描き出される永井さんの文章が実に巧いと感心させられました。

 

また、日清日露戦争後の東京に暮らす日本人の生活の窮乏の様子も目に見えるように書かれているし、当時の下町の日常風景も情緒豊かに描かれ、招魂社の大祭、人力車、共同水道、屋台や見世物小屋、ベエ独楽と言った言葉も一種懐かしく聞こえてくるのです。

 

当時は、まだ人が生き抜いていくための様々な職業が存在したわけで、作品中に書かれていた、例えば飴屋、いり立て豆屋、煮あずき売り、しじみ売り、鰯売り、苗売り、定斎屋、金魚屋、虫売り、こうもり傘直し、鋳かけ屋、煙管の羅宇屋、へっつい直し、廃兵院の行商、金太郎飴屋、生薬屋(きぐすりや)などは、私にとっては古典落語でしか聴いたことがないような。

 

救世軍とか、下駄の歯入れ屋、ミルク・ホール、勧工場の東明館なども興味がそそられます。 

 

初めて聞く名前もあるし、どんな職業だろうと調べたものもありますが、当時の東京に支那留学生がいたというのは知識として勉強になりました。

 

 

さて、順造ですが、尋常小学校5年にあと一年で卒業したらどこかに年季奉公するはずだったのですが、稼ぎ手の父親が寝込んでしまい、家計を助けるために学校を休んで父親の知合いの印刷所へ使い屋として働きに出ることに。

 

そのうち、駄菓子屋の離れを借りて住むようになった印刷工の飯沼明さんと知り合いになったのはよかったが、ある時飯沼も活動家として逮捕されてしまいます。ちょうど時代背景が明治43年の幸徳秋水事件のあった頃なのですね。

 

当時は尋常科の上に高等小学校が2年あるのですが、順造の通う小学校の同級生38人のうち、上の学校に上がれるのはその内10人くらい。

順造より1つ上の飯沼さんの末の弟も、来年には奉公に出てくると言っていたので、当時の庶民の子ども達はみんなそう言う環境だったのだと言うことがわかります。

 

年末のある時、少し前に順造は自転車に引かれて怪我をして寝ていたことがあり、その相手の洋品屋の主人がその後の様子を心配して、順造の見舞いに文房具の組合せを持ってきたことがあったんです。

それを見て順造は大喜びしたのですが、母親はそれを、ずっと仕事を休んでいる父親の印刷所の上司へ、歳暮として持参すると言うのです。どうも、その上司には順造の一こ下の子どもがいるらしい。

学校を休み家計を助けるために懸命になって働きに出ている順造は、父親から言い含められながらも、夜床のなかで声を押し殺して泣いたのです。

 

順造一家が苦しい生活を送る中、素朴な子ども心を綴った次の記述が心に刺さります。

 

『順造は毎晩、工場からそういう町々を抜けて帰ってきた。そして、去年のいま頃、つくづく感じたことを、その通り今年もまた感じた。それは、「よその人って、どうしてみんな、こんなに金持ちなんだろう」と、いうことであった。うらやましいとか、うらやましくないとかいう前の、ほんとうの不思議さであった。』

 

順造に遅れ、由太郎も小学校を卒業して大工の年季奉公に出ることになり、それから4か月後には明治から大正へと改元されます。

順造も棟梁のもとでほぼ10年修行、2人は21歳の徴兵検査で再会します。

 

 

その後夫婦になると決まった棟梁の姪ゆみに裏切られたことで、由太郎はやけになり棟梁の元を去り苦難の人生を送ることに。

 

修行先の小田原を抜け出して2年、家を出て5年、ぐれて大阪まで流れた由太郎でしたが、関東大震災の甚大な被害を知り、無一文のままで東京に駆け付けます。

そこでかつて修行時代に知り合った建具屋の卯之吉に再開し、家族の無事を知ります。

 

その後、和解を許されなかった父親とは顔を合わせることもないまま父親は倒れて亡くなり、やがてかつてのゆみに似たお千加と知り合い、由太郎はお千加を家に入れ母親と暮らすことになるのですが、そのお千加も胸を病んで他界。

一時は焼跡の復興で儲けた卯之吉の商売もやがて傾き、大正から昭和に年号が改まるころには卯之吉の行方も知れなくなります。

 

それから時が流れ、今では由太郎も棟梁となって、戦死した弟の三郎とその妻、その娘の里枝との穏やかな3人暮らし。

幼い頃一緒に遊んだ川崎順造のことをふと思いだすことも。

 

ある時、たまたま遠足の子どもたちを引率して由太郎の普請場を通りかかった山口先生とばったりと再会。

かつて小学校の教師だった山口先生も今では校長になっていたのですが、その山口先生と話すうちに、先生と同じ小田原にいる卯之吉が由太郎に会いたがっていたと聞かされます。

それから少しして普請場に卯之吉が訪ねてきたのですが、すでに由太郎は54歳、卯之吉も53歳。20年後の再会を果たすのです。

 

 

 

著者の永井龍男さんについては、文庫本のカバー裏に著者紹介として次のように書かれていました。

 

明治37年(1904)東京神田に生まれる。16歳のとき短編「活版屋の話」が文芸雑誌「サンエス」に当選、選者菊池寛に認められる。昭和2年、文芸春秋社に入社、「オール読物」「文芸春秋」の編集長を歴任。

戦後、昭和23、4年ごろより作家生活に入り、その後横光利一賞、野間文芸賞、芸術院賞、読売文芸賞を受賞とあります。

※川端康成賞も受賞されてますね。

 

また、巻末の福田宏年氏の解説によれば、「著者の永井は明治37年に神田猿楽町生まれ。

母方の祖父が活版所の職長を勤め、彼の父が校正係、長兄は欧文植字工と書かれており、彼自身も一ッ橋高等小学校を出てから、暫くではあるが、米相場の店に丁稚奉公したことがある」らしい。

 

ここに描かれた明治・大正・昭和の時代における町の風景や職業、登場する人物などの描写はまるで今観てきたかのように写実的に感じられたのも、それで頷けます。

まさに、著者の人生と重なっていたんですね。

 

 

今回、本当にこんなに素晴らしい本と出会うことができ、また永井龍男という優れた作家を知ることもでき、本当に幸せな気持ちに満たされました。

 

今度は永井龍男さんの他の著作を読み始めましょうか・・・。