真珠湾攻撃 捕虜第一号「酒巻和男の手記」・・・ | モバイルおやじ@curbのブログ

真珠湾攻撃 捕虜第一号「酒巻和男の手記」・・・

真珠湾攻撃 捕虜第一号「酒巻和男の手記」

復刻版合本 改訂版

真珠湾攻撃 捕虜第一号

「酒巻和男の手記」捕虜第一号 俘虜生活四ヵ年の回顧

 

2020年(令和2年)8月15日 改訂版第1刷発行

発行・編集 青木弘宣

監修・校訂 田辺健二

 

この本は、酒巻和男さんが戦後すぐに出版した「俘虜生活四ヶ年の回顧」(昭和22年)と「捕虜第一號」(昭和24年)の二冊の手記を合本にし、戦後75周年を記念して彼の歩ん足跡を研究し後に残そうと考えた親族や彼を知る人たちの努力によって復刻出版されたものです。

 

ここには、日米英開戦において日本軍捕虜第一号となった酒巻和男少尉の手記を中心に、約4年1ヶ月にも及んだ米国での捕虜生活の実情と当時の精神の遍歴が見事に浮き彫りに描かれています。

 

1941(昭和16)年12月8日は、日米開戦の端緒となる日本軍の真珠湾奇襲攻撃が行われた日。

 

航空機や軍艦からの奇襲攻撃により真珠湾に停泊中のアメリカ太平洋艦隊に打撃を与えたものの、二人乗り特殊潜航艇5艇による真珠湾攻撃は失敗に終わり4艇は撃沈。

唯一酒巻艇のみが故障や爆雷攻撃により湾外の砂浜に漂着。

操縦士は行方不明、酒巻さんは意識不明で砂浜に打ち上げられているところをアメリカ軍に拘束され、その後4年間(23歳〜27歳)をアメリカに点在する6箇所の俘虜収容所で転々と過ごし、昭和21年1月4日、ようやく無事故国日本に帰国したわけです。

 

開戦当時は潜航艇の乗組員9名の殉死が大々的に報じられ、二階級特進によっていわゆる「九軍神」として祀り上げられた一方で酒巻のことは一切抹殺されました。

 

酒巻の実家には、当初戦死の広報が伝えられたのち、その後すぐ生死不明として前報を取り消し堅く口止めされたそうです。

 

ようやく日本の敗戦により、アメリカの輸送船による航海を経て昭和21年1月4日、ようやく浦賀沖から故国に帰還。

 

酒巻さんについては戦後になってから初めて、彼が捕虜として生きていたことが報じられました。

 

その後酒巻さんとは海軍兵学校68期同期生で、航空兵としてソロモン反攻作戦で撃墜され同じく捕虜となった経験を持ち、戦後は中部日本新聞の記者になっていた豊田穣に求められて語った内容が、酒巻の意思に反して特集記事として掲載され反響を呼びます。

 

当初は無断掲載に抗議を申し入れた酒巻ですが、その後和解しその豊田穣の仲介で、帰国の翌年昭和22年3月にトヨタ自動車工業(当時)に入社が決まり第二の人生を生きることになります。

 

英語も達者で人格者だった酒巻は、人事部の新人教育係、輸出課長、開発部次長などを経て昭和44年、ブラジル現地法人トヨタ・ド・ブラジル社長に抜擢され、その後豊田総建(トヨタT&S建設)の社長や参与を経て退職し、平成11年(1999)11月29日、81歳で永眠。

 

 

大正7年11月徳島で生まれた酒巻は、学業優秀だったが兄弟が多かった(11人兄弟の次男)こともあり、大学まで行かせてもらえるかどうかと考えた末、国費で学ばせてくれる海軍兵学校に入学を決めます。

 

彼がいかに優秀な青年だったのかは、その手記の中で捕虜の心情の変化を、「求死ー煩悩ー自暴自棄ー懐疑ー求知ー自覚ー再起」と、如何にも的確かつ冷静に分析していることからも窺えます。

 

捕虜になりウイスコンシン州のマッコイ収容所に移った昭和17年春には、すでに彼はアメリカという国の報道の自由さに驚き、アメリカという敵国そのものを学びたくなったと書いています。

まさに「収容所」を「修養所」として学んだわけです。

 

生きて戦後の日本の再建に貢献したいと願う彼の強い思いは、ややもすると反攻的になったり自暴自棄となる他の捕虜たちをまとめよう苦心した状況からも深く感じられるのです。

 

巻末の資料の中に、昭和47年に撮影された酒巻さんの写真が載っていますが、見るからに実直で明るく頼り甲斐のある人物だと思わせる風貌です。

 

山崎豊子さんの未完の絶筆となった「約束の海」の主人公の父親のモデルが酒巻さんだったことはよく知られていますが、その山崎豊子さんの言を借りれば、酒巻さんはまさに「戦争という呪縛から日本人で最初に解かれた人」だったと言えます。

 

過ぎ去り風化していく歴史の中で、その後も受け継がれながら人々の記憶に留めておくべき真実はまだまだたくさんありますね・・・。