一昨日、美の種in神戸が終わり、昨日は、ものすごい解放感がありました。ありすぎて、その中にとっぷり浸かるしか身の施しようがないくらい。自覚以上に、そこへ向かうことの中にあったものが、あったのだなぁ、、、と驚きました。
今年は春から色々ありすぎて〜美の種を伝える活動を十分にできたとはいえなくて、諸々のこともあり、なかなか動けないこともありました。ともすれば、そのことに罪悪感を感じてしまいそうになります。
罪悪感や、人目を気にして。何かのために誰かのために。
ねばならない、やらなくちゃ、をエネルギーの発動ポイントにすることもできるけれど、それをやっても付け焼刃で、失うものの方が大きいと、今は十二分に知っている。
自分の真実とともにあること、自分を整えることを大切にしました。
自分の身の丈を自分に許しました。
『できなかったら、あかんの?』
息子が、聞いたことがあります。小5の頃かな?
その時、ハッとしました。
そうか、私はできないことを、良い悪い、で見ていたのか?
と思いました。息子、鋭いところを突いてきます。
今の状態。ありたい状態。
何を選択するか。
何がモチベーションか。
できるか、できないか。
やるか、やらないか。
やったのか。やらなかったのか。
やらなかった中には、何があったのか。
何が、そうさせたのか。
それができない(しない選択をしている)理由の一段奥にある、核心は何か。
その時々の自分から顔を背けずに、自分自身の真実とともにあると
その時、その時の、心の内にある核心に触れます。
これをやらずに、それをやるのか?ということもあれば
この状況で、そこに行くのか?ということもあり。
(と、書いてみると、よくわかるのは、この文章自体がジャッジですね)
(理由を探そうとしている)
(そして、動きたい衝動に頭で説明できる理由がないことは、しばしば)
そういう意味では、随分と選択のバリエーションは増えたということです。
以前は、自分の心に蓋をして
ねばならない、こうあるべきに従うが優先だったから、ある意味簡単だったのです。
(そして、それを行う正しい理由や、やり方もあると信じていたのだなぁ)
私は、自分の気持ちがわからなかったんだ、と気付いたのは最近です。
そして、その方が生きやすかったのかもしれません。
自分の心は棚に上げれば良いのですから、構造がシンプルです、笑。
自分の気持ちがわかって、誰かの気持ちまで察し、想像していては
こちらを立てれば、あちらが立たず
嫌われる勇気(は読んでいないけれど)を持たなければ、決断できないこともある。
ただただ、自分の気持ちに寄り添っていけばいいのですから、こちらもシンプルなはず。
不慣れなもので、そうすることに
随分と迷ったり、エネルギーを使ったりするのですね。
考えてしまうから。
つまり、それは頭にエネルギーが行ってしまっている状態です。
自分の心を棚に上げた時点で、頭に頼る生活が始まっているわけで
そこに頼ってきた実績から、油断すると、頭にエネルギーを注ぎがちに。
そのエネルギーというのは、思考のエネルギー。
誰かの気持ちを察したり、想像したりしてみても
所詮、自分以外の誰かにはなれないわけで
人の気持ちに敏感な人が陥りやすいところかもしれません。
どんなに考えてみても
人の気持ちは、その人のもの。
誰かの感情の責任は他人にはないのです。
エネルギー効率を上げて動くには、動くしかないんだな。
考えている場合ではない。
『考えるな、感じろ』 ですね。
ところが、長らく、頭を優先してきたゆえか
つい、どのようにそれをするか?を考えがちな自分も発見。
どのように、それをするか?と考える時点で、実は
今、それをすることを最優先にするのではない、ことの可能性も。
魂の芯からやりたいことは、どのようにそれをするかという方法を考えるまでもなく
気がついたら始めているし
思いもよらないところから、すでにそれをやっている状態になっていたりする。
そういえば、息子。
ギター、ギター、ギターの毎日です。
『やったら、やっただけ、うまくなるねんから』と言っていた。
やるか、やらないか。
全ては、そこから。
言い訳、理由。
私たちは、思考することで、人生を思いのほか、複雑にしていることがあります。
無駄に考えるエネルギーを減らして
感じること、行動することへと移していけば
頭に支配されたジャッジの世界から
エネルギーロスのないシンプルな愛と行動の人生へと、舵が切られていきますね。
*写真は素敵にしていただいた美の種当日のヘアデザイン
よーく見ると、チョンマゲが刺さっている!!んです。
わかります!?
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