グラウンディング+サウンドレゾナンス セッション ご感想 | 魂のよろこぶ生きかた

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アーリートラウマ解放/ソウルコーチ やはぎのりか Official Blog

$心の庭 魂の家

神戸にお住まいののりこさんが、都内に来ると知って
前々から受けてみたかったサウンドレゾナンスをお願いした。
時間や場所を決めるやりとりをしているのとほぼ同時に
ある方からセッションリクエストをいただいて初提供することになった
実母の誕生日の、昼間のこと。

サウンドレゾナンスは
コンピュータ解析した声紋(ヴォイスプリント)から
エネルギーの状態、才能や本質、課題となることなんかを見られるもの。
http://soundresonance.jp/

わたしはずっと
自分の声に違和感があった。

声を録音すると、自分が聞いている声と違う。というだけじゃなく
状況や場面によって声を自然と使い分けていて
そのどれもが、自然ではないと感じていた。
「自分の声」がわからなかった。

インストラクターやってるときや
コールセンターで電話対応してるときは
かってにワントーンあがって
それは、自分の心の状態と連動してることに気づいていた。
相手の影響を受けないための防御。
自分を押し出すことで、他者を跳ね除ける声。
だから、イントラ声でひとしきり喋ったあとはいつも
ブルドーザーでがんがん走ったあとみたいな達成感と爽快感と
ちょっとしたむなしさがやってきた。
一方通行の声。

実家にいるとき
ふと気づくと声を張っていた。それが当たり前になってた。
日常生活、リラックスしている場面でも
きんきらしてたり、カツカツしてたり
(自分で言うのもなにか気が引けるが)
自分が思っているよりも、ずっと、かわいらしい声だったり

でも、そうじゃない声でしゃべるのは、なぜか、はばかられた。
そういう声でしゃべるしかないんだと思っていた。
誰かと意思疎通するとは、そういうことだと思っていた。


ノートパソコンの、サウンドレゾナンスの画面を前に
ヘッドセットをつけて、自然な声で喋って、と言われ

いまこんな部屋にいて。とか
今日はこんなものを食べた。とか
てきとうに喋るのだけれど
どうも、しっくりこない。
自然な声がわからないんだから、そりゃあそうだ。
ふざけまじりにイントラ声でやってみたりして

それで、のりこさんに、コーチをお願いした。
グラウンディング嫌いなので(笑)
あまり気は進まなかったのだけれど。

  なんで嫌いって
  ほんとうの自分になっちゃうから。
  なにもコントロールできなくなるから。

誘導にしたがって、グラウンディングする。
のりこさんは時折、姿勢をなおしてくれて
わたしは自分がうまく出来ているのかわからないまま
横でみてくれるのりこさんを信頼して、出来ているつもりでいつづける。

カラオケボックスでやっていたから
画面に思い出したように現れる美川憲一の姿とか(笑)
隣室のアニメソングが耳に付いたりしながら
しばらく、グラウンディングの状態を味わって

どんな感じ?と聞かれても、特になにも出てこないでいたら
のりこさんが、手をとって、感じたことをシェアしてくれた。

ピュアなエネルギー
だけど
それを出しちゃいけないと感じてる?

うん。だって。浮いちゃうから。
周りを落ち着かなくさせるから。
張りつめていたナニカがほどけて涙になって落ちていく。

わかってもらえるってことが
こんなにうれしいなんて。

それからなにを喋ったのかは、ほとんど覚えてない。
いままで感じてたこと、おそれていたこと、あれこれ話した。
肩と背中がゆるんで、ハートとおなかがつながってて
話したら、話しただけ、身体があったかくなるような声だった。

それから、もういちど、サウンドレゾナンスで声を録ったら
あきらかに変わった。

上中下段にそれぞれあらわれる
表現している自分。周りから見えている姿。
外と内を繋ぐ感覚。
潜在的な能力 本質 動機づけられるもの。

$Present Time ~心の庭 魂の家~

そのどれもが
わたしがあれこれ手探りしてきた
「わたし」というイレモノの質を端的にあらわしてた。
あまりの適合ぶりに、違和感を感じるほど。

何度か録ってみるうちに
すこしでも「説明しよう」「わかってもらおう」という意図がはたらくと
声が変わるのも、わかった。

自分の思いを伝えるには
肩に力をいれて
しゃんとしてないとダメだ。
そうしないと、聞こえない。きいてもらえない。っていう、思い込みがあった。

それを手放したら
わたしの声は、わたしの味方になった。


その日の晩のセッションは、この声で話した。
話したら話しただけ、共鳴していく感じがした。

数日後の大晦日、例年のようにわたしの実家で紅白をみながら
ご馳走をたべ、日本酒をのみ、わいわいと喋っているとき
声を張らないように、素の声でいられるように、意識していた。
ぼさっとした声。でも、ちゃんと、きいてもらえた。言葉が通じた。
酔っ払って苦しくて途中で寝てしまうのが恒例だったのに
この日はあっというまに時間が過ぎて、
どんなに飲んでもゆるやかな意識で居続けられた。

このあと、どんな場面でも「素の声」で居続けようとする期間を経て
いまは、場面に応じて、ある程度ハリのある声も、自然と使ってる。

そのまんまの声にいつでも戻れるなら
たまにはオメカシするのも、わるくない。

先々週参加した氣道協会の「声の教室」も、おもしろかった。
声と意識のつながりをあらためて確認。
声の可能性を思う。
この声で、届けたいものがあるような気がする。
それがなにか、どうやって届けるのか、まだわからないけど。

感じたこと、想ったこと。
のりこさんのグラウンディングコーチはすごくやわらかくて
ふわーっと包み込まれている安心感。あたたかさ。

子宮のなかの胎児に戻ったような気分だったかな。
なにも隠さなくていい。
“正しさ” “あるべき姿” という概念のない
あったかくて、すこし心もとない空間。

それはたぶん、カラオケボックスにはいったときから始まっていて
だから、サウンドレゾナンス1回目の違和感に気づけたんだと思う。
この声じゃない。グラウンディングしないとダメだって。

おかげさまで、すっぴんの声に出会えました。
自分のなかから、出してあげることができた。
立ち会ってくれてありがとう。
ひとりじゃできなかった。
声って、伝えたくて出すものだから。

この声で生きていくんだなー。生きていいんだなーって、すごく嬉しかった。
それに、そのとき自分がどんな声を出してるかで、
グラウンディングしてるかどうか?どんな意識でいるのか?分かって、とっても便利(笑)

書くことや、カタチを創ることでの表現を、
これからやっていくと思うのだけれど
「すっぴんの声」の意識からうまれてくるものを
いまは、待っている感じです。


由紀(くじら)さん