事実は自己の幸せにまったく関係ない。



というのは、幸せに必要そうな、
健康や学歴や容姿や収入や、
それらの事実を持っている人も自分は不幸だと感じる人はゴマンといるし、



それらの事実を持ち合わせていない人でも幸せな人はおり、事実は自己の幸せにはまったく関係ない。



ハーバード出身の不幸な人も、
綺麗な不幸な人も知ってる。
お金持ちの不幸な人も知っている。





何が関係するか。



  健康や学歴や容姿や収入がないことが
「不幸である」という認知、というか自分のなかでの設定。
それが「事実」をジャッジすることにより、
人は不幸になったり幸せになったりするみたい。


コップの水を半分しかない、とするか、
半分もある、
ととらえるかの問題とよく言われるやつはこれ。
自分が持っている設定、認知を変えろという話。



私は過去に、「自分は親に愛されていない病」を発症していて、
結果として「親じゃなくてもいいからだれか認めてくれ病」だった気がするんだけど、



「愛されていない」という認知は、
「自分が思った通りに動いてくれない」という超絶エゴ設定に対するジャッジだったということに気が付いて悶絶した。



親のふるまい、愛情表現が 「自分が思う子供を愛する親の姿」 と違ったのだ。 




同様に他者に対しても
「自分が思った通りに動いてくれること」=愛情 だと思っていた。
ぐへええ、勘弁してくれよ。こんなこと自分が要求されたらマジでしんどいわ。
すまん、どんなに好きでもできないや。。
ワタシw 




つまり、私は自分のなかの認知と相手が違うことで苦しんでいて、
認知の仕方に気づいてしまいさえすれば、
私はクソ愛されているのだよと気づいた。




彼らは彼らなりに一生懸命だった。

無知な子供が道を間違わないように、
あれこれ口を出して管理するのは親の当然の役目だと。
そして年収800万のときに年間200万の学費の学校によく入れてくれたなと思う。



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私の10代の過去は同じなんだけど、
少し前の私はコミュ障の父に愛されていない不幸な子だった。
同じ過去だけど、今の私は父に愛されていた幸せな子だと思う。
今も帰省するたびに、びっくり発言は飛び出すけどねえ。。。




だから繰り返すが、
事実は自己の幸せにはまったく関係にゃい。
全部認知、設定の問題。



私が笑えば世界は笑うし、
私が泣けば世界は泣くのである。