私が尊敬する、人生とお金の専門家であり、ファイナンシャル・ヒーラーの岡本和久氏。

長年、国内外の証券市場で資産運用の業務に携わったのち、2005年に個人投資家向けに投資教育を行うI-Oウェルス・アドバイザーズ株式会社、2019年に特定非営利活動法人 みんなのお金のアドバイザー協会~FIWAを設立しています。


毎週火曜日と木曜日の12:20から10分間、岡本さんやFIWAのメンバーがclubhouseでお話をするのですが、8/2は川柳についてでした。


俳句と川柳の違いは、

・俳句が季語を使い、自然や季節を謳ったものなのに対し、川柳は季語は使わず、世相や人事などを題材とする

・俳句は文語体、川柳は口語体
・俳句は切れ字(〜かな、や、けりなど)を使うが、川柳は切れ字は使わない
と言う特徴があります。

岡本さんは、川柳人の立場から、サラリーマン川柳が幅をきかし、川柳がふざけたものと認識されるのは嘆かわしいと言っていました。

その時、岡本さんが紹介したのは、戦前に活躍した天才川柳人鶴彬(つるあきら)でした。

杉並区立中央図書館で借りた2冊。

いずれも書庫から出して戴きました。



鶴彬は1909年元旦(実際には前年12月)に現在の石川県かほく市に生まれ、1938年に28歳で没しています。
プロレタリア川柳を多く残し、官憲の拷問を受け、獄中で罹った赤痢によって亡くなったことから、川柳界の小林多喜二とも評されています。

写真は鶴彬全集(たいまつ社)から。




生後すぐに養子に出され、小学校での成績は優秀だったものの、中学校への進学を養家から拒まれたため、諦めています。
途中、軍隊への入隊等があり、川柳作家としての活動は実質的には8年半ですが、膨大な川柳とそれにまつわる評論を残しています。

鶴彬は、山口県出身の川柳作家、井上剣花坊が発行する川柳誌「川柳人」などに寄稿しました。
剣花坊亡き後は、夫人で川柳作家であった井上信子が鶴彬を支援しました。

鶴彬の川柳の中から、逝去の前年(1937年)11月15日の「川柳人」に掲載された最後の作品をご紹介します。

①高粱の実のりへ戦車と靴の鋲
②屍のゐないニュース映画で勇ましい
③出征の門票があってがらんどうの小店
④万歳とあげて行った手を大陸へおいて来た
⑤手と足をもいだ丸太にしてかへし
⑥胎内の動き知るころ骨がつき

④⑤は、寺島しのぶ主演の2010年の映画「キャタピラー」を彷彿とさせます。
⑥は戦争で夫を失った妻のことでしょうか。
いずれも心を揺さぶらせる作品です。


この年の7月には盧溝橋事件が起こり、日本は中国との全面的な戦争に突入しました。

当時の政権が、鶴彬のような反戦分子を黙認する訳はなく、彼はこの年の12月に治安維持法違反で、特高(特別高等警察)に検挙され、野方署に留置されました。
野方署にはプロレタリア作家平林たい子も留置されており、鶴彬と共に警察と激しくわたり合いました。彼女は代表作の一つ、「砂漠の花」の中で、鶴彬について書いています。

特高による度重なる拷問と、他の収監者とは異なり面会に訪れる者がいなかった孤独感から、心身共に弱っていた彼は、翌年8月に赤痢を発症し、翌月に亡くなっています。

元731部隊に従事した伝染病専門医の湯浅謙氏は、留置所で赤痢に罹って死亡したケースは過去に聞いたことはないため、特高により赤痢菌の入った食物を食べさせられた可能性がありうると述べています。
同じく治安維持法違反で勾留されていた「人生論ノート」などで著名な哲学者である三木清は、獄中で意図的に疥癬に感染させられ、それが原因で亡くなったとも言われているので、そのようなことがあったかもしれませんが、今となっては真相は分かりません。

日本ペンクラブの電子文芸館にて、鶴彬の川柳の一部を読むことができます。



川柳作家井上剣花坊夫人で、官憲に目をつけられながらも鶴彬を支えた井上信子についても、興味を持ちました。
機会があれば彼女の作品も読んでみたいです。

※今日の一曲はお休みします。

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