3月のテン大授業は、「元寇防塁」。元寇神社と福岡市博物館を訪れ、学芸員の説明を聞くというものだった。

 


蒙古襲来…2度に渡って神風が吹いて元の侵攻を防いだ。

かなり怪しい記憶によると、そういう認識。

とにかく外国勢による侵略を免れた。

その戦闘の舞台が博多であったこと、博多湾の海岸沿いに20キロ以上の石垣を築き元軍を撃退したこと、などは記憶になかった。

 

防塁というのは1900年代についた名称で、もとは石築地(いしついじ)と呼ばれていたそう。耳にしたことすらなかった。

 

鎌倉時代のモンゴル帝国の覇権はとてつもないものだったらしい。

西は、東ヨーロッパ、トルコ、シリア。

南は、アフガニスタン、チベット、ミャンマー。

東は、中国、朝鮮半島。

ユーラシア大陸のほぼ全域はモンゴル帝国の領地。地球上の面積の30%近くを統治していたというのだ。

 

そんな帝国の侵攻を撃退したとは…

どれほどの被害があったかなど、まったく知りもしなかった。

2度の攻撃に関する理由や背景などの詳細も興味さえ持っていなかった。

 

1度目は、1274年の文永の役。

フビライ・ハンから、幾度となく日本へ対等な立場での友好関係を求めた国書が送られたのだが、日本がことごとく無視したため、軍力にものを言わせて日本をかしずかせようとしたらしい。目的が日本制覇ではなかったため、博多に壊滅的な被害を及ぼしただけで一旦撤退したというのだ。

この時神風は拭いていないというのが最近の説とのこと。

 

文永の役の時点では、石築地は築かれてはいなかった。

だから元軍は博多に上陸することができて、鎌倉軍と一戦を交えたのだ。

 

再度襲来する恐れがあると考えた鎌倉幕府は、元寇防塁の構築を行った。

香椎から今津まで、高さ2.5mほどの石垣を海岸線に沿って。



授業のキャンパスとなった博多市博物館のある西新には、当時砂丘があったらしく、海岸近くに都合の良い土地の高低があったらしく、防塁づくりには適していたらしい。

 

砂丘といえば鳥取砂丘しか思い浮かばない私は、その昔福岡にも砂丘があったことに驚き。そういえば今は道路や建物に覆われた一帯には明らかに高低が見て取れる。

 

とにかく2度目の襲来、1281年の弘安の役では、石築地により元軍の上陸を見事に防げたのだそう。敵は船で中国や朝鮮半島から襲来してきているので、戦いは海上で繰り広げられたらしい。この時は、神風の由来である台風が来たらしく、中国式にお互いを繋いでいた船は沈んだものもあったがほとんどが火事で焼失したらしい。

 

博多(九州本土)への襲撃は免れたものの、近辺の壱岐対馬、志賀島、鷹島などは壊滅的な被害を被ったそうだ。犠牲者のいない戦闘はない。

 

文永の役から750年が経つ。

これは授業をやらなきゃと、テン大の学長が企画してくれた授業。

午後に予定が入っていて、時間的にはかなり無理したのだが、欲張って参加して本当によかった。


追記:

福岡市博物館には、漢委奴国王の金印がある。

初めて本物を見たが、意外と小さかった。