まほろばスタジオをひとりで切り盛りしているオオタ・ヴィン監督による「夢みる小学校」という映画を観た。

 

福岡テンジン大学の授業で出会った人と子どもフォーラムというイベントでも一緒になり、その時にこの映画の自主上映会に誘ってもらったのだ。偶然にも同い年で、お互いに子どもや教育に関心があって意気投合した彼女とはこれからもいろいろと接点ができそう。

 

とても良い映画だった。こんな学校に行きたかったと思わせる素晴らしい学校が題材として取り上げられていた。

 

『宿題がない、テストがない、「先生」がいない。
「きのくに子どもの村学園」の子どもたちは「プロジェクト」とよばれる体験学習の授業を通じて、自分たちでプロジェクトを運営し自らの頭で考えます。』

 

行きたかったと思うのは、宿題もテストもないし先生もいないからではない。自分たちで考えて直接の体験を通じて学べる環境だからだ。学校を楽しみいきいきとした笑顔を見せる子どもたちの姿があったからだ。

 

それにしても、ないない尽くしの学校、どこかで聞いたような…。そうだ、オルタナティブスクール。だけど違うのは、きのくに子どもの村学園が認可された私立の小学校と中学校であるということ。学習指導要領に基づいてるということ。これには驚かされた。

 

映画では、他にも”自由な公立学校”が二校取り上げられていた。
60年間成績通知表や時間割りがない「体験型総合学習」を続ける公立小学校、伊那小学校と、校則、定期テストをやめた世田谷区立桜丘中学校(西郷孝彦前校長時代)。教育法でも学習指導要領でも通知表は義務付けられていない。

 

そうなんだ⁈ なのに何故ほぼすべての学校で当たり前のように通知表を使っているのだろう。何故ほぼすべての学校(特に公立校)で右へ倣えの画一的な学習方法を行っているのだろう。

 

きのくに子どもの村学園では、モノを作ること、食材や食事を作ることなどを通して目的達成に必要な歴史、社会、数学、地理などを学習する。合理的だし、社会に出てから通用する知識と応用力を身に着けることができると思う。何よりも自分たちでやりたいと思って決めて必要に応じて学ぶので確実に身につくしやる気が出る。

 

大人の考えを強要せず、子どもファーストという信念を貫くので、子どもたちが自分らしくありのままでいられる。ストレスがないのでいじめもない。子どもたちが決めることも多数決ではなく話し合いを重ねて決める。

 

映画にはいろんな人が登場し様々なコメントをしている。印象に残ったのは、今の大学生は問う力を失っているという大学教授の言葉だった。だけどきのくに子ども村学園の卒業生は際立って問う力があったと言っていた。

また、発達障害は画一的な教育の産物であるというコメントになるほどと思わされた。発達障害と診断される子どもの増加は近年のもので、何が原因なのか、本当に増えているのか考えあぐねていた。画一的で型にはめるのを好む日本社会において個性あるはみだし者は発達障害というレッテルを貼られて特別扱いの対象にされてしまうのだと思う。

 

私の時代はまだ発達障害という言葉を耳にすることはなかったが、高校時代海外に留学した経験のある身としては、人と違う、ちょっと変(変ジャパ)というレッテルの対象となり、画一的な「普通の日本人」の型に押し込めようとする圧力を感じたのを覚えている。そして、大学時代は違うことが劣等感になっていた。大学院で再び海外に出てようやく人と違うことを良しとする自分になれて楽になった。

 

きのくに子どもの村学園を卒業する時、子どもたち主催の卒業を祝う会を行うのだが、両親や学園のスタッフ(大人たち)に涙ながらに自分らしくいさせてくれてありがとうと感謝の気持ちを伝える中学生の姿みて言葉を聴いて目頭が熱くなるのを感じた。本来はそれが当たり前であるはずなのに。

 

学校側が何かを大きく変えようとすると、必ず反対する保護者がいるそうだ。社会はそんなに甘くない。社会は大変なんだと。とある教育委員会の一員は、そんな社会にしたのは大人の責任であるからまずは子どもに謝りたいと著書で述べている。教育委員にもまともな人がいるのだ。

 

学校と保護者、あるいは教育委員会や文科省と学校が敵対するのではなく、協力しあって今の教育制度を変えていくべき時がきている。そして、その気になれば、関係者が協力し合えば、改革は可能なのだ。

 

この映画の自主上映会を増やして認知度をあげること、同じ価値観と信念を持った人同士で繋がってムーブメントを起こすことが、改革の一歩を進めることになる。

 

4月にはオオタ・ヴィン監督による「夢みる校長先生」も上映される。そして、新作「夢みる給食」の制作も始まっているらしい。楽しみだ。