【北区】西音寺 | ぼっちあるき

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歩きながら考えてみた

八雲神社から旧岩槻街道を南へ歩きます。

 

 

フェンスに囲まれた広めの敷地に、手水鉢や石碑等が集められた場所に遭遇しました。近くに石材屋は見当たらないし、売り物というより古い物が放置されている感じです。

 

 

あぁなるほど。プレハブっぽい建物があったので工事現場かと思いましたが、埋蔵文化財なんですね。以前、多摩センターにある展示ホールを見学して、展示品の説明文章に感銘を受けたことがあります。復元された竪穴式住居では、火起こしの実演もされていました。それに比べると、分室とはいえ粗末な扱いに感じます。こういう所の予算は削らないで欲しいなぁ。

 

 

埋蔵文化財センターの向かいに西音寺があります。山門が綺麗なので、改築時に不要になった石碑等を向かい側に移動したのかと思ったくらいです。新しいお寺に見えますが、嘗ては家光が日光参詣の際に立ち寄ったという古いお寺で、文明二年(1470)の開山です。

 

 

街道に向かって立つお地蔵さんの手には、宝珠に本物の数珠か掛けられていました。数珠の珠の数は108で、それは煩悩の数を表していると言われています。除夜の鐘も同じ理由で108回撞きますよね。四苦八苦(4x9+8x9)や暦(12か月+24節気+72候)が108になった根拠とされています。

 

人は生きている限り煩悩に囚われ、「そこ(煩悩)から解放されたらどれだけ楽に生きられるか」と思います。しかし釈迦が説いた有無同然という言葉の通り、物やお金があってもなくても、それに囚われてしまって悩みは尽きません。

 

「ならばいっそ生から解放されたい」そう思っても不思議ではないくらいの状況は、誰にも訪れるでしょう。有無同然を物やお金だけでなく、自らの生に置き換えれば、そういった発想も生じるかと思います。あるいは、(亡くなって)仏になれば、煩悩から解放されると。

 

物やお金が有っても無くても幸福を感じられない人間は、無明の闇にいます。究極的には「煩悩を断ち切って悟りに至りたい」と願うわけですが、それすら欲望であり執着とも言えます。故に仏教では「煩悩即菩提」と言い、両者は密接に結びついていると考えます。

 

数珠を手にして祈る心には、この無明の闇からの解放を願う気持ちがあります。しかしその手に握られているのは、108もの煩悩なのです。六根(眼・耳・鼻・舌・身体・意)という心の感覚器官が、「好・悪・平」の三つに受け止め、「浄(きれい)・染(きたない)」の二つに分類し、それが「前世・今世・来世」に渡って因果する煩悩(6x3x2x3)。

 

煩悩は人間の本質とも言え、それを自覚したところで悟り(菩提)という新たな執着が生じる。「じゃあ一体どうすればいいのか」その答えは、二千年以上の時間を要しても得られていません。弥勒菩薩が下生(げしょう)する(現世に現れる)まで(56億7千万年後)待ったとして、確実に得られるものでもないでしょう。

 

もしかしたら、人間は生ある限り煩悩から逃れることはできないので、地球自体が存在するかどうかも分からないような未来仏にしたのかもしれません。煩悩は「あるもの」として捉え、「あぁ今執着してるなぁ」と俯瞰できるようになることが、人間の目指す道なのでしょう。

 

かく言う僕は、ほんの僅かな事象でも心が揺れ動いてしまい、悟りどころか煩悩をなぞるような生き方をしています。あまりにも情動が激しく、自分でもうんざりしています。平静でいようと心がけていますが、時間が経っても反芻してしまうのです。

 

そうして刹那的になってしまった今があり、過去も未来も憂いても仕方ないのだから、極力考えないようにしています。過去を悔いたり、未来を憂いて生きるのはもったいない。過去からの学習や未来への準備は必要だけど、そのために今を消費してしまうのは惜しい。

 

正直なところ、そんなふうに考えて生きているのです。もちろん、それが正解だとは思っていませんが、そもそも人生に正解なんてないでしょうし、限られた時間の中で何を優先するかというくらいのことではありますが。

 

 

門前に馬頭観音がありました。石の姿が自然で、美しいですね。言葉を使うようになったことで言葉に支配されるようになった人間は、「言葉にできない」芸術を生みました。石がどうやってできたかを言葉で説明することは出来ても、偶発的な造形は言葉にできない。だから美しく感じるのでしょう。

 

 

引き返します。ノーマスクで歩いている僕は、境内に入る資格はないです。これもご縁です。何が悪いとかではないでしょう。人間社会で生きている以上、こういったことは珍しくないのです。コロナはそれを浮き彫りにしただけであり、それを批判しても、自らの執着を露わにするだけなのです。批判ではなく、考え方を表明することには意味があるとは思っています。

 

次回はJR東十条駅の北口方面へ向かいます。それではまた!